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翳に沈く森の果て #4 繭
根の世界
璃乃(アキノ)はしばらく集真(あづさ)藍と名乗った女性の顔を見つめていた後、なんだか鼻の粘膜を覆う土やカビの匂いとひんやりと湿った空気を感じていた。
「痛い」
瞬きをしてみたが、暗闇。目を閉じても開いても、漆黒の土臭い場所にいるのだ。そう感じた。もしこの場所が明るかったなら視界にあるものはほとんど木の根や蔓や蔦で覆われているのだろうと想像できた。その空間を全力で感じようとする本能が最大限働いるようで、何となく「絶望的」とだけ察した。さすがに璃乃はこんなに恐ろしいことは想像したことがなかった。
いや、違う。
この一年ほど、もしこの涙が降る先が森だったらどんな場所なんだろうか、と想像してきた璃乃は、ふと「その場所」なんじゃないかと思った。
何も見えないけれど、手に触れる根のようなものを掴み、横たわっていた状態からなんとか上体を起こして周囲を確認しようと試みた。
左手の中指と薬指をこめかみに置いたまま、思考が再開してからここまでに数秒もかからなかったが、同時に答えに繋がりそうなものは何も持っていそうにないという感じがした。(それは気づかなかったことにしよう)そう心の中で呟いた。
璃乃は気を取り直し、落ち着いてもう一度状況を確認しようと考えた。
もしかすると根や植物で編まれた巨大な迷路の途中に引っかかって空間に浮いているんじゃないかと錯覚した。触れてみた根や植物は湿っていて冷たく、体重をかけると根が押し合う音がした。両手は無事、両足も無傷のようだった。上を見上げてみたけれど、当然陽の光も、枝葉も見えそうにない。暗闇の中でどこまでも同じようなものが続いている感じしかしなかった。出口のない闇。
生き物の声も風の音も水の音もしない静寂の中だった。
人間は暗い場所が怖い。強い恐怖で身体は硬直し神経を研ぎ澄ませる。璃乃は自分の感覚にも少し気を配るようにし始めていたところだったので、強い緊張状態にあると感じてまずは落ち着こうと努めた。それから最善の策を考えるべきだと思った。
おそらく冷たい霧と土の匂いに満ちたこの闇の中の「根の世界」の終わりは、一体どこにあるんだろう。
とにかく周囲に危険なものがなさそうなことで少し落ち着きを取り戻した璃乃は、想像した「森」のことを考えた。
多分、この中のどこかに行かなければいけないところがあるんだろうな
そう思うと、ここから出なくてはと何とか心を奮い立たせて璃乃はひとまず危うい足場を確かめながら立ち上がってみた。
するとどうもさっきより更に目が慣れたのか、目を細めたり見開いたりしていると少し視野も広がってきた気がする。
・・あれ、灯り・・?
目を凝らしてみると数メートルほど先に小さな点が増えていっているようで、虫が苦手な璃乃は実際に見たことがなかったが、蛍がいるんじゃないかと思った。
「とにかく少しでも明るい方へ行こう。」
小さく声に出して近くの植物を掴みながらとても小さないくつかの灯りが灯る方へと悪い足場を一歩一歩確かめるように進みながら、その光が「星みたいだな」と思った。
ようやく小さな光たちがある辺りまで来てみると、それらは柔らかく光ったり消えたりしていた。もしかして道を照らしてくれているのかもしれないと思うと虫嫌いの璃乃もありがたくて少し嬉しい気持ちになってきた。
そういえば「蛍は綺麗な所にしか住めないらしいけど、そう遠くない場所にもヒメボタルが見られる場所があって行ってみたことがあるけど綺麗だったよ」と以前近所の友人から聞いたのを思い出した。
それからどれくらい歩いたのか、ホタルたちの明かりが続いていく方へ登ったり下ったりしたが、どうやら結構下方向に進んでいるようだなと思った。そうするとこれが本当に木や植物の根だとして、下へ下へと向かうのはまずいんじゃないか、と怖さが増していくのも確かに感じていたが、ただ今考えるのは後にしようと考えながら更に進んだ。
結局どれだけの時間歩いたのかはよく分からなかったけれど、すっかり息が切れてきた璃乃はこの闇の根の世界の中にホタルたちがたくさん集まっている場所を遠くに見つけた。
足を少し早めながら疲れてて汗ばんできているのを感じていると何かが前に進んでいるような気がして、生きている感じがした。それでいて何かと対峙する道に立っているのかと思うと不安でもあった。
璃乃は深呼吸をすると、最後のアップダウンを超えた先に少し開けている場所があるのが見えた。そこに集まったホタルたちが照らし出していたのは、根や蔦のようなものが周囲から集まり、濃く茂ったそれらが絡まりあってひとつの大きな卵のような塊となっている何かがあるのが見えた。
受け入れ難い現実が続いていることは飲み込みつつ、ここまでやって来たのだからきっと何かがあるのだろう、と璃乃は心を決めてここまで歩いてきた。だからゆっくりと足元を確かめながら少しだけ丘のようになった小さな土の山の上に位置しているその塊へ近づいて行った。ここまで辺りを照らしてくれたホタルたちの柔らかい光に照らされ闇の中に浮かんでいるように見えていたのは、やはり根と植物の蔓などで出来た巨大な繭みたいなものだった。
璃乃は恐る恐るその卵の殻のようなカタチの繭の下の部分に立って蔓に手でそっと触れてみると、周りの植物と変わりはなさそうだったので中が見えないかと少し登ってそっと蔓や草をかき分けてみたりした。そのうちに隙間から入ったのか、ホタルたちが中をぼんやりと照らした。
こんな恐怖ってあるか・・そう思いながらも、璃乃は背伸びをしながら半分どうにでもなれという気持ちで右腕を目一杯伸ばして懸命に扉を開こうと踠いた。そうして蔓の少なそうなところの草たちを手も足も使って引きちぎったりしていると、ついに纏まった枯れ枝の束のようなものがガサガサと剥がれ落ちたのだった。
ホタルたちが優しく照らしているその繭の内部が分かるほどに入り口ができた形になった。その繭の内部は予想したよりも少し広く、枝や蔓や枯れ葉以外は何もなさそうな空間の真ん中で小さくなって座っている人らしきものが見えた。よく見るとそれは「幼い璃乃」だった。
そのことをいくらか想像はしていた璃乃だったが、しばらくの沈黙の後「あの・・」と声を出してみた。
暗い暗いその繭の中の璃乃はしばらく座ったまま自分のつま先をみつめているようだった。璃乃は相手が何か発するまでじっと待っていようと思った。霧が濃くなってきたのでホタルたちの光が繭の中をさらに幻想的に映し出した頃、幼い璃乃が何か言った。
「遅い。遅いな・・」
座って下を向いたままそう小さく言ったが、やはり璃乃はその子が「自分」なんだろう、と思った。
「そう、だよね・・」
座ったままの璃乃はそれには答えずしばらく黙っていたので璃乃は続けた。
「あの、璃乃で合ってる?」
「さあ、名前とか、なんでもいい。」
「そっか。じゃあ・・あの、ちょっと話を聞きたいなって思ってるんだけど、なんかややこしいから、どうしよう。鳥の巣?繭、かな?繭に住んでるみたいから繭って呼んで、いいかな?」
「なんでもいい」
「そう、ありがとう。それじゃあ・・ちょっと外に出られそう?」
すると繭は体を動かした。
「大丈夫?」
璃乃が繭を出て少し坂を下りると後ろから繭も下りてきた。二人が根の繭の根本にあった大きな木の根に並んで腰掛けるとホタルたちがふわふわと集まってきて周囲に蝋燭の火のような小さな灯りをふわふわといくつか浮かべていた。
璃乃は肩を回してゆっくりと大きく息を吐いた。
「あの、はじめまして。璃乃です・・知ってると思うけど・・それで、ここはどうやら地下?地中みたいだけど、地上もあるってことかな?私帰りたいんだけど。帰れるよね?方法を知ってたら教えて貰えるかな?それから繭、は、ずっとここにいたのかな」
「・・うん・・ずっと。ここ、根の世界の管理人みたいなもの。けどずいぶん昔からずっとあの中にいた。それから、ここを出るには、いくつかやることがあると思う。ただ無理をしてはいけないということは私でも知ってる。すぐに元いた場所に戻ってもいいし、何度もこの場所と行き来してもいいし、とにかくそれなりの覚悟はいるみたいだよ。」
「そう・・戻れるのか。あぁ、それなら良かった、あぁ、ほんとに!行き来ができるの?・・それじゃあ、少し話そう?」そうして二人は並んで座り、ホタルたちが照らし出す、薄暗い蛇の巣窟のような風景を見つめていた。
「ね、繭。私が璃乃として生きて数十年。人生の中で昔のことは正直言ってはっきりと覚えていることが少ないかも・・楽しいことが少なかったのか、いつの間にか重苦しい記憶が楽しい記憶の上に堆く積み上がってしまったから埋もれてしまったのかも。よかったら、繭の話を聞きたいな。」
繭は少し顔を上げ、「とにかく・・父親がね。めちゃくちゃだったね。」そう言ってしばらく口を結び、続けた。
「ある時、父が母に対してあまりに怒鳴っていて、私は『お前は2階に上がってろ』と言われたんだと思う。自分の部屋に行ったけど父の怒鳴り声が聞こえなくなるわけでもないし、ただ心が痛かった。2階に行くこともそれはそれで嫌だったよ。母が一人で怒鳴られているのが申し訳なくて今思えば罪悪感だった。そのとき自分に出来ることは一緒に聞いてあげることしかないと思って、父が怒鳴る声を階段で聞くことにした。階段の上から5段ほど降りるのが限界だったけどね。それで、そこに座って母が怒鳴られている声に、耳を塞いで身体に入る量を調整しても聞こえてくる父の大きな声に耐えながら泣いてたな。気づかれないように、声を殺しながらものすごく泣いてた。あの時のまま私はここで止まってるんだよ。」
璃乃はその光景憶えている。そして近頃はそれを離れた場所から見つめている璃乃もいることに気がついていた。璃乃は繭、その小さい璃乃を目の当たりにして、階段に座り母のために半分は自分が背負わなくてはと泣きながら父の大声を聞いていたその時の気持ちが手に取るように感じられて、息が苦しくなり、涙が滲んできた。
「繭、ここは、この根の繭はその時に出来たんだね?繭を、守って来たのかな。当時、酷い日常だったのに誰にも頼れなかった。確かに一人っ子だった私は母には相当甘えたけど、綺麗なひとだったのに母の表情はいつも眉間に皺を寄せていたし、とても緊張感があって怖い時が多かった。一人っ子のわたしをちゃんと育てなければという思いもあったのだと思う。色んなことでよく叱られたし、わたしは何が正しいのか正解がわからない未熟な自分の存在が母をさらに追い詰めているようで申し訳ないと思いながら、いつしか両親の顔色ばかり見ている子供になってた。逃げ場とかそんな概念すらない幼い私たちにとって家は牢獄だった。そしてそれは始まり。その時からここでこの先の自分を守らなければって、必死に生きてきた。そうだったよね?」
しばらくの間ホタルたちは沈黙を照らしていた。そしてその小さい璃乃は、肩を震わせ両手で顔を覆いながら声を押し殺して泣きだした。
璃乃は少し驚いたけれど、何となくそのままにしてあげなければいけない気がした。
「誰もいないから、好きなだけ泣くといいよ」
すると小さい璃乃は涙が流れるままに、
「・・なんで。なんでこんな目にあわないといけないの」
「なんでうちはこんな家なの」
「もう嫌だって大声で言えないの?」
「こうやってずっとひとりで泣くしかないの?」
「もうこんなところは嫌だ!嫌だ!嫌だ!!」
小さい璃乃はそう叫んで、大声で泣いた。
璃乃はその声を聞いて、自分が思っていた繭という存在に対する「伝えたい、謝りたい、慰めたい」という気持ちの前に、繭の「叫びたい」気持ちを何十年も置いて来たままだったのだと気付いたのだった。初めて気持ちを叫んだのだ。物心ついてからの子供時代に声が枯れても叫びたかった思いを本当に口にすることができないままだったのだと、しばらく呆然とした。気付けば璃乃はここまでの人生でも、心の中で大事なことほど、「本当の叫び」こそ口に出来ない人間になっていた気がして来た。色んな思いも言葉も頭の中を巡っては口を通らずにずっと奥の方に押し込めてしまう人に。多分「口にしない」ことが璃乃にできる防御のひとつだったからだ。束縛や抑圧を恐れいつも脱出することを夢見ては頭の中で終わりのない思考の旅を続けるばかりだったせいでついた悲しい癖だ。結局子供時代は生きるために海底で貝のように息を潜めている生態の生き物として生きた。そして言葉や悲しみ、恨みや恐れは璃乃の中央部分に圧縮されてきたみたいだった。
だからこうしていつかどこかでいつか会うべきだと思い続けて来た小さい璃乃の隣にようやく居るということが、嬉しかった。小さい璃乃はその後も押し殺した声を解き放つように嗚咽を交えて泣いていたが、璃乃が恐る恐る小さな肩をしばらく優しく叩いてあげていると落ち着いて来たようだった。
「・・そりゃそうだ。私がずっとそう思ってたんだもんね。あの家と学校だけの小さな世界が全てだったし、その場所でしか生きられなかった。繭はその時からずっとここでこうしてたのか。何度か頭の中では会いに行こうとして、結構近くから様子を見られる所までは行けるようになったけど、結局そこまでだったね、私。」
璃乃がそう言うと、小さな璃乃は鼻水を袖で拭きながら足元の根を見ていた。ようやく璃乃は深呼吸をして、集中した。
「ずっと、来られなくて本当にごめん。あまりにも長い間待たせてた。これまでずっと頑張ってくれてありがと。もっと早く伝えに来られたら良かったよね。これでも自分なりには頑張って生きてきたつもりだけど、大丈夫じゃない時もあって。でもいつかこうしてそれでも大丈夫だって、私が守るって、伝えたいと思ってた。一番大事にしないといけなかったのに、出来なくて本当に悪いことをした。ごめんね、今までありがとう。」
そう話すことができた璃乃は、小さな璃乃に改めて深い感謝と謝罪の気持ちでいっぱいになって、溢れそうな何かを堪えて少し震えた。
そして手のひらを見せるように差し出すと、そこに小さい璃乃が汚れた小さな手のひらを乗せた。その手は見覚えのある懐かしい手で、思ったよりも小さくて体温を感じた。小さい璃乃はその手を見つめ、璃乃は手のひらで何かが溶け合うような感じがして自然と涙が流れ落ちたのだった。
ふと「同期」という単語が浮かんだ。それから「責任」という単語。
ただ、繋がれた気がした理由は言葉のせいだけではなかったような気もしたのだ。そしてこの時を長く待っていた璃乃は、あちこちの緊張が解けて脱力していくのを感じていた。
本当の言葉を伝えたい人に伝えることは、璃乃にとってとても難しいことだった。ずっと「本心」を叫びたかったのは自分だったのに、そしてとっくの昔に手を差し伸べられるほど大人にもなっていたというのに、きっと受け止められそうにないとただ逃げていたのだ。そうしていろんな積み残しに蓋をして見過ごしながら生きるようになって、そうやって生きていくしかないと割り切ろうとしてきたけれど、じわじわと道がどんどん狭くなっているのに気付かず、ついには本当に行き止まりに行き着いてしまった現実を思い出した。
いや、ここが現実か?
璃乃はそうして動けなくなってから、もう遅すぎるのかもしれないし出来るのかも分からないけれど、とにかく絡まり合ったいろんなものを一度自分で解きに行ってみるしかない、そう考えるようになっていたから、今日この小さな璃乃に会えたのかもしれない。
そして触れることで繋がれたのかもしれない。自分は何かに飲み込まれていただけだったのだろうか?
恐れ?
「恐れ」がさらに「恐れ」を生み、長い時間をかけて増幅し巨大な恐れの中に取り込まれてその圧の中で怯えて暮らしていただけなのかもしれない。いや、実際怯えて暮らしていたから本当にそんなものの中で生きていたのかもしれない。そしてそこから外の世界を知ることもできず、何にも縋ることができなかった。
だから息が出来なかったのか。過剰な恐れなんて幻想なのに、ありもしないものに埋もれていたのか。
小さい璃乃が「『ごめんねとありがとう」を、ありがとう」と、グズグズの汚い顔で言ったので二人は少し笑った。すると小さい璃乃は、璃乃の顔を見上げながら、
「ここでたくさん泣いた。どうにかしようってがんばったよ。ここに来てからどんどん根が伸びて、いつのまにか巣みたいになってた。ここから出た血もずっと流れてたけど、何もできなかった。」と悔しそうに呟きながら初めて胸元の刺し傷のようなものを見せた。
「え・・? え、凄い傷じゃない⁉︎」璃乃は血の気が引いて、思わず両手を口にやった。
「ずっとこうだったよ?でも、もうだいぶ良くなった。ときどき気にしてくれてたの知ってたから。最近は血?も止まってたよ。」
「ほんとに大丈夫⁉︎・・ごめん、来るのが遅かったから?」
「だいじょうぶ。もう来てくれたし。」
「・・ありがとう。そう言って貰えると、救われる・・。ああ、もう本当に申し訳ない。生きているとさ、どうにかできることと、出来ないことがあってね・・」
「ふうん・・希望がないね。習字の時間に『希望の光』って書いたのに?どうして人は生きてるの。どうして生きないといけないの?なんで生まれてくるのか全然わからない」小さい璃乃はまだ目に涙を残したまま璃乃を見て言った。
「そうだよね。なんで生きてるんだろうね・・いまだにわからないよ。」
答えがあるなら璃乃も知りたかった。
「でも、会えて良かった。勇気を出して。私は、最期まで、繭の味方だから安心していて欲しい。」璃乃は自分でも予想外の言葉が口から出た。小さい璃乃は、嬉しそうだった。
「それじゃあ私、まだ先がありそうだから、進んでみようかな。」
「うん、それがいいと思う。私はここにもいるし、しばらくしたらどこにでも行けると思う。今日、来てくれてありがとう。」と、鼻水だらけの晴れやかな表情で言ってくれた。
「ほんとに、今までここで頑張ってくれてありがとう。」
璃乃はまた涙が溢れたけれど、今度は満ちてくる気持ちが初めて感じる種類の感情だな、と思った。なんと言う名前なんだろう、と。
「また会えるかな?」と璃乃が聞くと、
「たぶん。会いたければ会えるし、会わなくても大丈夫だと思う。きっと心配いらない。ここは、ぶどうのひとつぶだと思う。
繭はそんなことを言ったが、璃乃は少し頼もしくなった表情を見て嬉しさを隠せなかった。
「ぶどう?・・葡萄みたいに、こんな繭がゴロゴロあるって・・?」璃乃は気が遠のいたが覚悟はしてきたのだと腹を括った。
「がんばって」小さな璃乃はやっと子供らしい笑顔を見せて璃乃に手を振ってくれた。
「・・じゃあ、いってくるわ。」璃乃は立ち上がった。そしてこじ開けた狭い根の繭の穴を潜り出る時に振り返り、「ありがとう」と言ってもう一度繭、小さい璃乃に笑顔で手を振った。
「あ、そうだ。希望は・・なくならないよ。絶望することもあるけど・・でも、それでも希望はなくならない。生きている限り。」
そこから十七年間、小さな璃乃の家庭環境が変わることはなかったので耐え続けなければならなかったが、そんなことを伝えることはできなかった。
「わかった。いや・・知ってるよ、見てたから。大丈夫、ありがとう。」
そう言って全てを見て来た繭は少し嬉しそうに頬を緩めて、小さな手を振りながらもう一度笑顔を見せてくれたのだった。
この笑顔は一生忘れない。
そう思って璃乃も最後にもう一度笑顔を返し、手を振った。
図らずも長年想像した対面を終えてみると、想像とは違っていたものの不意に人生の大きな課題をひとつ終えて、とても不思議な感覚に包まれた。同時にまた抗えない疲労感が押し寄せてきた。
思考能力はほぼ残っていないな・・と自分でも感じたていたけれど、目に焼きついた小さな璃乃の笑顔に「進めるところまで進みたい」と動かされ、なぜか気分はゆっくりと雲が消えて行くように晴れていったのだった。 一匹の蛍が璃乃の隣に飛んできたので視線をやると、側に小さな紙切れを見つけた。手に取ると本の切れ端のようで、「261」と書いてあった。
続