方法主義のシンギュラリティ、あるいは世界創造のレシピ ―「IAMAS ARTIST FILE #09 〈方法主義芸術〉―規則・解釈・(反)身体」展 レビュー 山本和弘
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方法主義のシンギュラリティ、あるいは世界創造のレシピ――
方法主義は、私たちの創造性を民主的にアクティベートするだろうか、あるいは特権的な特殊方法に留まるのだろうか?
「IAMAS ARTIST FILE #09 〈方法主義芸術〉―規則・解釈・(反)身体」展が岐阜県美術館(2023年10月11日~12月24日)で、「岐阜おおがきビエンナーレ2023〈方法/Method〉」が情報科学芸術大学院大学[IAMAS] (2023年12月7日~12月10日)で開催された。二つの「方法主義芸術」展を美術館での展示を中心にレビューし、その成果と展望を考察する。
美術館の会場入り口には「方法 2000-2004」と「方法」の活動時期が明確に記されている。しかし出品作品がその期間に律儀に収まっているのは足立智美のみで、他の三人の作品は期間の前後へとはみ出しており、この5年間の正式な活動期間と「方法」による制作が厳密には対応していないことを示している。このキュレーションのズレは、この展覧会が「方法」を満5年間の活動による過去の事象として回顧するものではなく、「方法」が制作の基盤として活動時期以前から着実に胎動し、活動終焉後もなお持続していることを示唆している。例えば事前に告知されることなく突如、関連イベントとして美術館で開催された中ザワヒデキのポスト「方法」というべき第47回AI美芸研は、「方法」の活動とは無関係に各方法主義者が独自の活動をよりアクティブに展開していることをあらためて宣言しているようだ。
2000年から2001年まで(前期)の「方法」の活動は作曲家・パフォーマーの足立智美、美術家の中ザワ、詩人の松井茂によって、2002年から2004年まで(後期)の「方法」は足立に代わって作曲家の三輪眞弘によって実践されてきたことは周知のとおりだ。だが展示は足立、中ザワ、松井、三輪の(五十音?)順に各人の展示コーナーが配置され、前期・後期の三人ずつによる枠組みは無視されている。このことは四人による二つの三人組とは果たして何だったのだろうかという問いを浮上させる。「方法」の名を方法主義として宣言した「宣言」は、eメールと年賀状で発信/配信され、前者はいま現在もアクティブであると同時にインターネット上にアーカイブ化されている。このことを同時代的に認知していた受容者にとって、「方法」は作品制作のための方法すなわち手段や規則ではなく、作品よりも優先される原理原則と理解されていたはずだ。本質よりも現象が先行する実存主義的な現象学理解のように。しかし美術館の展示では方法よりも作品が、物理的な存在感と視覚的なスペクタクルによって、とても見応えのあるものになって(しまって)いる。見応えのある展示とは、通常の美術(館)での展示では褒め言葉以外の何ものでもないのだが、方法主義における「方法」の展示においては、「方法」とは作品制作のための方法であったのか、という疑念を生じさせる危険性を孕んでもいた。この点において美術館という既存の箱における展示構成としては第一級のレベルにありながらも、現代芸術全般をメタ次元へと刷新しようとする「方法」にとっては、他のポスト芸術を志向する動きとの差異化の困難性を浮き彫りにしたともいえよう。これは美術、詩、音楽という領域を限定してきた美術のフォーマリズム的ゲットーを解消させ、ジャンルの無効をも宣言しようとする「方法」を検証するための展示にとっては、美術館とキュレーションの限界を露呈させる副次的成果として評価すべきことであるかもしれない。
「方法」とは何か、という根源的な問いに明確な答えを出しているのは、足立智美の展示である。作品名が厳格に《方法音楽第8番》と《方法音楽第9番》という作品のみが展示されているからでも、先述のように方法主義の活動期間内に出品作品が限定されているからでもない。現実の音響を一切排した記号・文字・写真・立体造形による「楽譜」自体が、そのまま詩であり、美術であり、音楽であるというジャンル横断あるいはジャンル融合のポスト総合芸術のありうべき姿を、方法主義者に共通する過剰な説明抜きで、受容者に無媒介的に知覚させる説得力をもっているからだ。四人の中で松井茂に次いで占有面積の少ない足立の展示は、作曲家・パフォーマーである以上に、方法のミニマリストあるいは方法原理主義者として、その存在を十全に示している。
展示順では二番目の中ザワの作品は、「方法」の提唱者であるためか、最も大きなスペース(壁面と床面)が用いられている。この最大空間の占有は、足立以上に方法のミニマリストあるいは方法原理主義者であるはずの中ザワを、皮肉にも、優れた美術家としてみせて(しまって)いる。彫刻を一次元に還元した横幅9メートルを超える《単一曲線》、7メーター四方のループ動画と、サイズや厚みの異なるライトボックスによる《文字座標型絵画》、フラットベッド型絵画としての碁石と碁盤による《盤上布石絵画》、鑑賞していた幼稚園児たちに“面白い!”を連発させる物量満(零)点の二種の《15個の滑車と6個の重りのあるロープ第一番》などは、非快楽を標榜する方法主義者の強面イメージを裏切るスペクタクルな展示である。例えば魑魅魍魎的な漢字群と倒立した平仮名からなる《文字座標型絵画》は、詩であると同時に楽譜であり、色彩を排した白黒絵画であることは容易に理解できる。「方法」活動の前と後に制作されたこの絵画は、地の白と図の黒を網膜レベルで混交すれば灰色になることも容易に推測される。よって灰色を避忌してきたポスト印象主義者や、灰色を抽象絵画と灰色絵画の二種によって表出せざるを得なかったG.リヒターへの冷徹な批評ともなっている。何よりもインクジェットという機械によるアウトプットは、今なお絵具と麻布が用いられていれば絵画作品であると安易な認定を許してしまう手技偏重の保守的郷愁から脱しきれない美術界への痛烈な批評である。さらに魑魅魍魎的な漢字群の音をフォルマント合成すれば、「ハイイロ、ネズミイロ」あるいは「ハイイロするぞ、ハイイロするぞ・・・」といった音響が生成されるかもしれない、という夢が方法主義ファンによってみられる“逆”解釈可能性の余地も残されている。これらの一貫した方法による中ザワの絵画もまた「方法」の活動期間内に限定されてはいない。
従来の紙の出版ではなく、インターネットに特化した配信による《純粋詩》と《量子詩》は、ネット環境とiMacを美術館に整えることによって、スペクタクルな装いを経ることなく、ザッハリッヒに松井茂の即物的な文字列のみによる方法詩として提示されている。最も占有面積の少ない、というよりも固より空間をわずかしか必要としない松井の展示においても、プロジェクションを活用した美術館の配慮的デモンストレーションが導入されている。逆にいえば、松井の詩はマラルメ以降グラフィック化が常態化した現代詩において、「数字=文字=漢字」による限定的要素が、それ自体として原稿用紙のグリッドに配列された地と図がそのまま音響化不要の詩なのであり、同時にグラフィックにもなっており、操作性の極少性が方法詩を方法詩たらしめていることがわかる。つまり松井の方法詩人としての活動は、美術館において改めて可視化・造形化されるものは極めて少ないのだ。それは「私情」を排除する方法主義の原理そのものである。松井の無音文字列は、それ自体が非個人的すなわち機械的であることによって、逆説的に人間の総体としての相互主観性(間主観性)にかかわるものであるといってよい。気象情報を即物的に記述する《量子詩》に挿入される「純粋詩一行を書く」という個の暴露は、微分的に滅却された個を経て他者の総体へと到達するという意味において相互主観性の表記なのである。詩の機械的な生成それ自体が松井の詩であることが、美術館とIAMASの展示から了解可能か否かは疑問だが、詩が正方形のグラフィックに表記され、コンピュータのディスプレイ上に明滅し、プロジェクターで意味を排した文字列のみに徹することによって、絵画的なもの、非音響的な音楽と融解しうるという方法詩の考えは理解できるだろう。その展示はいたってシンプルで、足立智美の展示と共通する極少性に貫かれている。椅子に座ってコンピュータの画面でひたすら詩を読む。これが必須なのは、松井の詩は時間とともに生成され続ける現在進行形であることを方法詩の基底としているからだ。配信状況そのものが詩を生成することが徹底されている。
松井の文字を用いた方法詩のデモンストレーションは、その展示構成と配置から、中ザワの文字を用いた絵画のリアライゼーションとの比較を受容者に自然に促す。松井の方法詩は、方法のみを際立たせる「方法」に忠実であり、対する中ザワの方法絵画はバリエーションがより豊富であるからだ。これは、松井と中ザワとの相違というよりも、「方法」とは定理を見出せば応用はあってもそれ以外の定理は不要となる数学の世界とこそ近いために、より観念の近くに棲息する詩とより物理的な支持体に居住せざるをえない美術との、モダニズム的差異によるものだ。換言すれば、定理そのものを方法として反復する松井の方法詩と、定理の変奏やバージョンの積み重ねによって究極の作品を例示し続ける中ザワの方法美術は、ジャンル間の相違を露呈させており、ジャンルの孤立に異を唱える方法主義者にとって、これは歓迎せざる事態かもしれない。ともあれ松井は方法詩を継続しながらも、「方法」以後の展開としては詩作とともに研究者や批評家としてその活動を広げているように思われるが、それはこの展示の枠外にある。
三輪眞弘の展示おいて8台のiMacで“デスクトップ再演”される方法音楽の初演と再演を一瞥するだけで(じっくりと聴き込まなくとも)、三輪作品の実演には二種類あることが観取される。超絶技巧を奮う熟達の演奏家による作品と、いわゆる素人の演者が楽しくかつ必死に演奏する姿の二種である。前者は芥川作曲賞などでの受賞が、バッハからシュトックハウゼンまでの西洋音楽を批評すると同時に、バッハ以前とシュトックハウゼン以後をも同時に批評しうる作品の質の高さを証しているので、さらなる説明は不要であろう。この展示で重要なことは、芥川作曲賞を受賞した作品と同じくコンピュータのアルゴリズムによって作曲された作品のバリエーションが、演奏の素人によって演奏されることの驚きであろう。これは美術館の展覧会においても、IAMASでのビエンナーレにおいても実演に接することの幸運によって、展示への好感度が変化することとは無縁である。実際に幼稚園児たちが喝采したのは「逆シミュレーション音楽上映プログラム」中の《愛の讃歌—ガムランアンサンブルのための》が大写しになったときだった。もちろん三輪の作品を子供たちが知っていたわけではない。この展示において「逆シミュレーション音楽」が、既存の音楽に対してより魅力的なのは、まったく見たことも聴いたこともない音楽であるにもかかわらず、それがどこかで見たような、聴いたような音楽に思え、その「説明」によれば、それがコンピュータのアルゴリズムによって作曲されたという事実を知ることによる驚きによるところが大きい。誰が作った(コマンドした)かと思いきやコンピュータ、この時代にはまだコンピュータはなかったよね、と思わせた瞬間に三輪の逆シミュレーションという方法は、その音楽に接した者すべてにとって馴染みのある方法へと転化される。その作品は、何よりも知的で楽しくてカッコいいのだ。方法主義の語感が与える機械的な冷たさや非人間的な疎外感とは無縁の充実した音響がそこでは現象する。
同じく《またりさま》と《村松ギヤ》という三輪の作品が生成させる土俗的ともいえるコンピュータ演算が生成するリズムが、祭りや野球応援などの極めて日常的な音響空間と違和感なく融合することによって、アルゴリズミック・ミワ・オンド[音頭/音波]ともいうべき音楽が極めて身近なところで生成される親近感が醸成される。さらなる楽しい驚きは、コンピュータによって生成されて表示される楽譜が、演奏技術のまったくない人々によって演奏されることによっても、まぎれもない三輪の作品として成立することによってもたらされる。それらは二次的な参考作品ではない。プロの演奏家と素人の演奏家の演奏は、ともに「逆シミュレーション音楽」が日常に舞い降りた世界においては等価なのだ。技術の巧拙は問題の外にある。この意味において、日本での修行を回避してドイツに渡った三輪の「逆シミュレーション音楽」は、それでもなお信時潔《海行かば》、深井史郎《ジャワの唄声》、そして坂本龍一《戦場のメリークリスマス》の反交響楽的なアンサンブルの系譜と連なっているといってもいいだろう。ハイドンの皇帝に発して君が代に着地し、あるいは「清められた夜」が、ガムラン音楽として掃き浄められるように。
プロの演奏家によるものでも、素人によるものでも、《村松ギヤ》の方法に則った演奏そのものに、優劣あるいは甲乙を付けることはできない。といいたいところだが、あえて後者こそ方法音楽のあるべき拡張された姿であるとここでは捉えてみよう。そこでは特権的な教育を受けた一部のためではなく、誰にでもその演奏は開かれている。つまり特権的な能力を持ったごくわずかの人たちのためのものが、近代社会が付与して定義づけた芸術なのではなく、誰もが生まれながらにもっている創造性をそのままアクティベートさせることにつながるからだ。この意味において、素人による三輪の《村松ギヤ》の演奏は、熟達のプロの演奏よりも、革命的価値が高いとさえいいうるだろう。
三輪のすべての作品が現実音を伴っていることによって、無音に徹した足立智美の展示と対比されるが、この二会場の展示での妙味は中ザワの作品との対比だろう。というのも、両者の相違は美術と音楽の違いではなく、リアライゼーション[現実化]の捉え方の相違であるからだ。美術と音楽、そして詩は、ピクセルやボクセル、アルゴリズムなど方法の原基に還元すれば、そこに差異はないというのが方法主義の基本的な考えだからだ。両者のリアライゼーションの考え方の差は、中ザワの作品が機械による出力(印刷)以前のアイデアの成立をもって完成とするのに対して、三輪の作品は機械による出力(楽譜)を人間の演奏によって完成させるという作品成立の認定段階の相違に現れていることが展示からわかる。手の個的な関与を排除するコンセプチュアルでミニマルな美術の正統と、ジョン・ケージ以降も演奏・実演を必須ととらえる音楽という観点では、両者とも異端ではなく正統であるのだが、完成の次元の捉え方が抜本的に異なる。だが本質的に共通するのは、プロの技量をもった絵師や演奏家が実演するのが必要条件ではなく、特殊技量をもった人間以外の普通の人間とともに誰もがアクセスできる機械に開かれていることだ。一見、機械による出力のようでありながら、よく見ると手技による洗練されたメチエを誇るイミ・クネーベルの作品のような表面とは異なり、機械による出力そのものが作品の表面として完成される中ザワ。時間と場所を限定したプロによる少数回の演奏会ではなく、時間と場所、そして目の前でコンピュータによって生成される楽譜に反応する基礎的体力があれば誰にでも、何度でも演奏を楽しめる三輪の作品は、私たちの誰にでも開かれている。毎年夏に繰り返される盆踊りのように。
また過去の作品を隠し味的にさりげなく引用する音楽作品は珍しくないが、過去の作品を明示的に提示・変奏して、その作品と時代精神そのものを批評する作品は音楽では決して多くはない。美術では常套であるこの批評法を音楽において実践した作曲法は、三輪の作品が音楽以降の音楽を批評するのみならず、音楽史における批評による作品の創造という美術的批評法の欠如をも浮かびあがらせるだろう。過去にそのような作品があったにもかかわらず、音楽批評において評価される作品がなかったとすれば、この点における三輪の音楽史における批評性は群を抜いている。このことは三輪ガムランにも妥当する。わからん音楽とガムラン音楽との差異もまた、プロと素人の演奏家の差異の境界が崩壊することによって融解されるからだ。
美術館での質量の大きな展示は、イデアリゼーション[理念化]自体を作品の完成と位置づける中ザワの“逆”面目躍如なのだが、それに輪をかけたのが「岐阜おおがきビエンナーレ2023」会場での展示だ。なんと最新作《40048枚の硬貨から成る89736円(金額第四十二番)》が発表されたのだ。美術館での《盤上布石絵画》や《15個の滑車と6個の重りのあるロープ第一番》と併せると、苦役の果てにようやく完成される作品は見ごたえがある。対する三輪は、IAMASにおいて《流星礼拝》を演奏し、出品作品に加えた。ここでもイデアリゼーションの中ザワとリアライゼーションの三輪との対比ではなく、硬貨による質量の大きな楽譜的絵画とコンピュータが発信する信号を人間が受信して演奏する三輪の「逆シミュレーション音楽」が、ともに機械化された人間が臨場する展示となって、絵画を聴くものと音楽を見るものを等しく楽しませることとなった。
こうして展示に即してみると四人各自の「方法」主義活動期の作品のエッセンスとその前後の作品が、隔てなく構成された展示であることがわかる。しかし「方法」とは果たして何だったのだろうか、という問いへの明確な答えは見えてこない。反語的な答えは、この四人による二つのトリオは、アーティスト・ユニットでも、音楽のバンドのようなものでもないということだ。方法主義者には一つの作品を共作した実績として《方法カクテル》と《方法ばばぬき》しかない[註1]。それらが出品されていないことは、それらが成功した作品か否かという判断は差し置いて、方法主義者は美術と詩と音楽に共通する方法を策定して、その方法に則った作品をそれぞれが制作する集団ではないということだ。「方法主義宣言」(第一宣言)(2000年)から「方法」の幕引き(2004年)までの厳格かつ緻密かつ大量の機関誌からその濃密な活動を検証することは、先述のとおり、いま現在もインターネット上のアーカイブから容易に誰でも行える。アーカイブ化された「方法」の宣言と機関誌と、今回出品された「作品」の展示との位相の違いから見えてくるのは、「方法」とは一つの作品を共作・共演する集合体ではなく、「方法主義宣言」も共産党宣言やシュルレアリスム宣言のように賛同する仲間全てに共有されるものではなく、あくまでもこの四人によって制定されるも、各自がその方法に殉じることを誓い合った極めて個的で極地的な方法を標榜する四人のアーティストの結合体であったということだ。機械論的にたとえれば、複数の原子がときに接近し、ときに離れる分子のような離着可逆的な結合体であったといえるだろう。というのは例えばH₂OやCO₂のように引力と斥力はそれぞれの置かれた環境に応じて随時変更され、あるときは個体、あるときは液体、そして気体のように変化することがあらかじめ定理化されていたと考えるとその活動の意義がみえてくるからだ。
そのことを明確に示しているのが、「方法」という枠でくくられてはいるのだが、誰もそれに縛られることのない状態を明らかにした今回の展示である。「方法」活動時期の作品が、厳格な方法を互いに監視し合っているために、作品もまた禁欲的な厳しい作品が制作され、「方法」活動期の前後も、快楽的な作品に堕すことなく、それぞれの方法を多少は逸脱しながらも一貫した方法に則った作品が制作されている。そして何よりも重要なことは、各方法主義者が苦行時代とも回顧する人間的な過酷さとは無関係に、17世紀に生まれた機械論的世界像から取り残された芸術において、美術と詩と音楽におけるポスト現代芸術の蒙昧を啓く機械主義的な傑作がいくつも生まれたことだろう。
他者との共有不可能性を方法のシンギュラリティといったん措定すれば、残る問いは、それらの方法は方法主義者以外の私たちすべての創造性をもアクティベートする方法になりうるか否かということである。これまで見てきたように、中ザワの誰でもアクセスできる機械による絵画の出力、三輪によるコピーでも模倣でもない純作品としての素人による純正演奏、極私的で時間的な持続を要件とすることによって主観性が相互主観性へと転生する松井の詩、そして方法そのものに極少的に準拠することによって詩と絵画と音楽の垣根が崩壊する足立のメタ音楽は、どれもがエゴイスティックでセルフィッシュな特殊方法でありながらも、他者の創造性を民主的に開花させる方法へと転化する可能性を秘めている。創造という言葉は、本来は被創造者としての人間の営為の及ばない創造者としての神の領域の営為をさすものであった。それが神の死とともに人間が創造する主体となった。ところが、創造性は一部の人々に独占され、すべての人々のものとして成熟していないという考えが、21世紀のIAMAS学位記授与式の学長式辞でも言及されたヨーゼフ・ボイスによって20世紀の後半に広まった[註2]。『三輪眞弘音楽藝術』の表紙に讃を献じた坂本龍一もこのようなフレーズを再三語っていたように。
人間の感情や個人の思いなどの個別性を機械的に排したアルゴリズム芸術は、その方法論の原理においては、インターナショナルで革命的である。あたかも柄谷行人の交換様式マトリックスの第四象限を彷彿とさせる中ザワがAI美芸研で提示するマトリックスの第四象限「機械美学×機械芸術」を徹底することによって、方法主義は、人間を阻害することなく、生活の律動と共振する芸術の可能性すなわち既成芸術における創造性の既開花者だけではなく、創造性をもった全ての人々に共有される汎用的レシピととらえ直される大きな可能性をもっている。
[註1]中ザワヒデキ「「方法」の活動と終焉」」『妃』第13号、2005年、p.56。これは『実録 方法主義』あるいは『小説 方法主義』ともいうべき内容で方法主義理解のための必読エッセイ
[註2]具体的発言の例としては以下がある。「すべての人間が芸術家であるということは、すべての人間に本当の能力があるということです。なにも音楽を作ったりする必要はないのです。」『ドキュメント ヨーゼフ・ボイス』ペヨトル工房、1984年、p.206
この論評を、最愛の妻 香に捧ぐ
山本和弘(やまもと・かずひろ)
美術評論家連盟AICA JAPAN元常任委員長/東京藝術大学非常勤講師
主要訳書:ハイナー・シュタッヘルハウス『評伝ヨーゼフ・ボイス』美術出版社、1994年、ハンス・アビング『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』 grambooks、2004年
IAMAS ARTIST FILE #09 〈方法主義芸術〉―規則・解釈・(反)身体
岐阜県美術館
2023年10月11日(水) 〜 12月24日(日)(終了)
https://www.iamas.ac.jp/af/09/
岐阜おおがきビエンナーレ2023 〈方法/Method〉
情報科学芸術大学院大学[IAMAS] ソフトピアジャパン・センタービル
2023年12月7日(木) ~ 10日(日)(終了)
https://www.iamas.ac.jp/biennale23/