講演会レポート 新藤淳「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」
国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」最後の関連イベントとして、5月11日(土)に本展企画者の新藤淳によるオンライン講演会が行われた。
本展タイトルに冠された問いに対しどのような応答(作品)が生まれたのか。各作家のアプローチは一様ではなかった。
安藤裕美のように学生の頃に同館で見てきた作品に刺激を受けながら制作を続ける作家もいれば、コレクションや美術館自体と対峙する機会を今回改めて用意されたことで新たな作品を生んだ作家、もしくは田中功起のように展示計画にあたり生じた美術館側との協議過程そのものを作品にした作家もいた。
西洋諸国自身が美術館における脱西洋主義を掲げる一方で、日本の国立西洋美術館は国立でありながら自国のものを持たず西洋美術のみを収集している。このアイデンティティを捨て去ることはできない。ここは「悪い場所」としての日本を象徴する場所なのか?
しかし新藤は、西洋という縛りはあれど、この場所は、空間的にも時間的にも非常に遠くの、様々な他者たちの記憶を想起し直せる場所として考えている。
ミヤギフトシは、ギリシャ神話に登場するアクタイオンはセクシャルマイノリティだったのではと映像作品の中で示唆し、過去をいまだ知られざる方法で読み解くことで異なる時代を結んだ。
制作過程では館内を何度も歩いて立ち止まっては絵の中を旅するようにして見つめていたというエレナ・トゥタッチコワは、作中の詩でも語るように、美術館は未知なる回路を秘めている場所でありその都度気付かぬ道が見えてきて、過去のものでありながら新しく読み替えられていく可能性を示している。
展示室出口に並べられた梅津庸一と坂本夏子による共作《絵作り》の2人は海の向こうに向かってキャンバスを貼っているようにも見え、日本の画家が海の向こうから享受するだけでなく向こう側に絵を見せたいとしている──遠くのことを想像する場所としての西洋美術館を締めるのに相応しいと思ったそう。
遠くの他者を考えるのとは逆に弓指寛治の作品は、国立西洋美術館は身近な他者のことを考えてきたのかと問いかけてくれるようで、本展の問いそのものを超えていく作品だと評した。
新藤は最後に、本展が批判も含めた今後への可能性に機能し初めて挑戦した意義が生まれているならば幸いだと述べていた。
[本日、5/12まで] 「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか? ――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」 国立西洋美術館
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2023revisiting.html
一般応募して聴講をした筆者に講演会の内容を簡潔にまとめてもらい、レビューとレポートのXへ投稿したものを転載した。
執筆:@Romance_JCT
投稿はこちら
https://x.com/review_report_/status/1789481430248259604
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