【ぶっちゃけすぎ】国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?―国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」記者発表会と参加作家の梅津庸一、小田原のどか、鷹野隆大とキュレーター新藤淳によるトークセッションのレポート
2024年3月12日(火)〜 5月12日(日)国立西洋美術館にて企画展「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?―国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」が開催される。20世紀半ばまでの西洋美術作品を所蔵・公開してきた国立西洋美術館が、現存するアーティストとのコラボレーションをおこなうという、開館65年目にして初めての試みである。
1月22日(月)には記者発表会が行われ、取材陣に向け展覧会開催の目的や各アーティストの展示プランなどが語られた。参加予定アーティストの梅津庸一、小田原のどか、鷹野隆大の3名と本展キュレーターを務める国立西洋美術館 主任研究員の新藤淳によるトークセッションでは、本展、ひいては現代美術が内包する問題点にも切り込み、会場が(様々な意味での)笑いに沸いた場面もあった。本記事では「きれい」ではない部分にも触れながらおこなわれたトークセッションの場面を主にレポートする。
国立西洋美術館長の田中正之氏ははじめの主催者挨拶で、本展が目的とするところを明確にした。
「本展は現代の作品と美術館所蔵作品を並べて展示することで、コレクションに新たな光を当てて作品理解の地平を広げることが目的ではない。現代美術への関心が高い人々にも近代以前の作品にも親しんでもらい、来館者の裾野を広げていこうとする試みでもない。今回の展覧会でなされる最も大きな自問とは、国立西洋美術館やここに収蔵される作品が現代の表現とどのような関係性を結び、今の時代の作品の登場や意味生成にどのような役割を果たしうるのかを巡る問いかけである。所蔵作品を「原因」、現代の作家の方々の作品を「結果」とするような安易な因果論的な物語に回収したいとは全く思っていない。むしろ現代作家が国立西洋美術館という場に向けて発したいくつもの声に耳を傾けることが重要である。」
また田中は、1980年代以降ポストモダンの潮流の中で美術館の近代的なあり方が批判にさらされた際、アメリカの批評家ダグラス・クリンプが『美術館の廃墟に』で主張した、美術館というものは本来は様々なものが雑多にある異種混交的な場であるはずなのに、その異質なもので溢れて一貫性も体系もないことを覆い隠して、きれいな、一貫した、体系的な、あるいは辻褄が合ったストーリーを語ろうとする場になっている、という批判を参照し、その「覆い」が何なのかを今回の参加アーティストは様々な角度から問題提起してくれているだろうと期待の言葉を寄せた。
西洋美術を専門とする国立美術館が日本に存在する意味や国立西洋美術館の新たな可能性だけでなく、そもそも美術館とはどのような場なのか、どうあっていくべきなのか、という根源的な問題に、今、どれだけのどういった声が発されるのか。参加アーティストたちが示す姿勢に注目したい。
続いて新藤から企画と展示の構成が説明された。
国立西洋美術館は1959年フランス政府から寄贈返還された松方コレクション[1]を収蔵・展示する場所として誕生した。国立といいつつ実は、その返還にあたって多大な助力をもたらしたのは財界や美術家など民間の、600人近くによる寄付やチャリティー活動であったという。新藤は、館の創立に協力した画家・安井曾太郎の言葉を紹介した。「(松方コレクションの)絵がもし返ってきた時、誰が一番これの恩恵を受けるんですかと、それは日本国民全部かもしれんけれども直接的には我々美術家じゃありませんか……。」
国立西洋美術館はこのようなストーリーに端を発しながらも、未来のアーティストたちが生まれ育つ場所となりえてきたのか?本展に冠されたのはこういった館設立の原点をもとにした問いかけなのだそうだ。そしてこれは館による自問であると同時に、参加アーティストたちへの問いかけであり、来場者と共に考えたい問いであるようだ。
章ごとのテーマや各参加アーティストの展示プランも説明された。
田中功起の展示では国立西洋美術館が内包する「不可視のフレーム」を問題化するとして、館への提案を記したテキストだけを並べるようだ。その1つである「乳幼児向けの託児室を設けてほしい」という提案を踏まえ、実際に本展開催期間中(全日ではないが)事前予約制の託児サービスが実施される。こうした「提案」によって、美術館が暗黙のうちに前提としている「鑑賞者」の取捨選択を批判的に浮き彫りにするという。
他、詳細についてはここでは割愛する。
注目のトークセッションではまず、新藤が梅津、小田原、鷹野の3名へ自己紹介を促し、参加にあたっての意気込みや今日、西洋美術館で現代美術展を開催することの意義について問うた。
梅津は田中館長の述べた、異種混交であるべき場にベールをかけて覆い隠してしまうというのが美術館なのかもしれないという言説に同意を示し、本展もそれを踏まえた上で現代美術とは何かを問う場になるとしつつ、
梅津「率直な感想を言うと、まぁそうなるだろうし、この程度か、というところはあって。あっ、ちょっと失礼な言い方になっちゃうかもしれないんですけど。」(会場笑い)
と、のっけからベールを剥ぎ取りにかかってきた。新藤より本展のプランを聞いた時から思うところがあったようだ。
梅津「というのも本展は(美術館が)上野ゆかりということもあって全体の約半数が東京藝大卒か関係者なんですよね。未来のアーティスト=出品作家、と即座に結びつけるわけではないにせよ、多くの若い作家からすると「あぁそうか。東京藝大に行かないとこういう展示に出れないんだ。」、もしくは杉戸「教授」とか、小沢「教授」とか、松浦「教授」みたいな学内政治で勝って教授クラスにならないと、こういうところに選ばれないんだ。」っていう失望をもたらす展覧会でもあると思っていて。」(会場笑い)
日本の美術界における東京藝術大学の立ち位置に関する批判は、これまでの梅津の活動でも主張しているところである。本展をもとに問題提起をするというより、本展が問題そのものだとし、SNSでの発信やカタログに論考を寄せるなど積極的なロビー活動を行う意を示した。また、別のアプローチとして自身が主宰するコレクティブのパープルームに今年で90歳になる續橋仁子(つづきばし ひとこ)[2]を引き入れたことについて、トークの後半で触れている。續橋は二科展に40年以上出品してきた作家だが、自身は作家というよりも絵画教室の生徒・美術館のお客さんという立場で、美術館という展示場所は友人とお金を出し合って発表する場所と強く思っているような人物だという。今回の出展については当初美術館側から反対意見もあったそうだ。梅津は續橋の作品が、美術館のコレクションや現代美術制度の中で発表している現代のペインターの作品などに劣るかといったらそんなのは一点もなく、本展はそういうことを確認する場でもあると述べた。
続けて梅津は、本展を企画したキュレーター新藤に対しても言及。「主任研究員モードの新藤さん」ではなく「個としての新藤淳」はどうなんだと投げかけた。
梅津「今回のラインナップって実は新藤さんの半生を振り返るような、(会場笑い)個人史的で自画像的な部分があるんですよ。中林忠良さんは僕からすると大した作家じゃないんですけど(会場苦笑)。なんというか銅板の腐食と自己や世界の腐食を同期させるってちょっとベタかなと。新藤さんの……子供の頃に……なんかあるんですよね?交流とかが。」(会場笑い)
新藤「まぁまぁまぁ……(苦笑)」
梅津「そういういわれもあって、実は、出品作家もフラットな目で批評的な視座から選ばれたラインナップではなく。学芸員といえども一人の人間で、欲望とか葛藤とか、そういったものが展覧会に反映されるというのはむしろすごくいいと思っていて。ワールド・クラスルームとかなんとかエコロジーとかいって(会場笑い)どういう欲望で作られた展覧会か分からないよりかはそういったものが背景に渦巻いている方が逆に信用できると思うんですよ。(会場まだ笑ってる)なので新藤さんの方からそういったパーソナルな部分も開陳していただきたいなと。」
今回の参加アーティストが選ばれた理由や基準。この点は、本展が歴史的に重要な分岐点になりえる展覧会であるがゆえに観客側の関心もひときわ高いはずだ。様々な批判や憶測が飛び交うこともあるだろう。
梅津「じゃないと謎のラインナップすぎるというか。(会場笑い)美術館にとってせっかく初の現代アート展なのに奈良美智、村上隆、草間彌生とかは省かれてて、(会場う~ん。)どちらかというと2軍作家が多いと思うんですよ、2軍・3軍。(会場苦笑)国を挙げてこいつらがベストメンバーだ!っていうよりかは、新藤さんなりに何かあると思うんですよ、同世代だったりとか生きてる作家で対等なやり取りができる作家を多く選ぶことでこんにちの現代美術ひいてはキュレーションシップのあり方を色々実験したいと。奈良さんとか村上さんだとちょっと大変じゃないですか、やっぱり。(会場笑い)手に余るところがあるというか。梅津とかだったらちょっと黙れとかも言えるわけだし」
新藤「言えてないですよ!」(会場笑い)
梅津による痛快な指摘が次々と飛び出し会場では笑いも起きていたが、時折、梅津の指摘はもっともだというような納得や共感を示す唸り声も聞こえていた。
新藤は、主任研究員モードと言われてしまうとそうかもしれない、と言いながら慎重に言葉を選ぶ様子で「……きれいな展覧会ではないです。」と述べた。さらに新藤はトークの終盤で、今回の参加アーティストには自身で文章を書いたり論客としても活躍している作家が多いことを示しながら、「この人に西洋美術館ってどう思う?って聞いてみたいと思った人に声をかけていったのが率直なとこですよ。本当のことを言えば。」と明かしている。それは本展が何かを覆い隠してきれいなストーリーにまとまってしまうことを避けるために必要な挑戦であったのだろう。
その後は梅津が、参加アーティストの実名を挙げながら作品について新しさがあるかなどちゃんと切り込むのか?と問い、(会場笑い)
新藤「……えと~~批評ではないのでそこは切り込みません」
梅津「でも切り込まないとやっぱり名画と並んだ時に「あぁこのペインターってすごいんだ」っていうふうに観客が錯覚するんじゃないかと。」
新藤「いやいや!それはやっぱり見る人に委ねたいんで僕は」
梅津「そう……かなぁ……?でも僕は他にそれにふさわしいペインターっていたと思うんですけどねやっぱり」
新藤「まぁまぁまぁ、……どうですか、小田原さん」
小田原「はい」(会場笑い)
という具合で(やっと)小田原のターンへ移った。
日本に西洋美術館があることをどう考えるか?その問いに向き合うとき、日本は地震が多いという西洋とは異なる地盤の上に立っていることを思い出されたい。小田原は自身の展示プランとそこに込めた想いについて述べた。
小田原によるインスタレーションでは、館が所蔵するオーギュスト・ロダンの彫刻《考える人》(1881-82年)を「転倒」させ裏側が見える形で置かれるという。ロダンの彫刻は1923年、今から101年前の関東大震災で被災している。(被災したのは松方コレクションとは別のルートでやってきたもの。)周期的に大きな地震が起こる日本で、永遠不変の姿・そびえ立つ何かとは違う彫刻のあり方を考えるということは、日本の思想の課題として重要であると述べた。
また、国立西洋美術館では初めての掛け軸の展示も行われる。掛けられるのは西光万吉による最晩年の掛け軸《毀釈》(1960年代)である。西光万吉とは、1922年に被差別部落の人々が差別からの解放を目指して創立した「全国水平社」の創立大会で読み上げられた、日本で初めての人権宣言である「水平社宣言」、その起草者として知られる人物である。しかし西光はその後、獄中で国家主義者となり侵略戦争を推し進める活動家になるという「転向」を遂げている。小田原は「転向」の問題を自分なりに美術史の中に引き付けて、美術の中から日本の「転向」を捉え直していくという。
加えて小田原は、ロダン彫刻の横倒しについては不安があるのではないかと、101年前の関東大震災で彫刻がどのような状態であったかなどたくさんの資料を用意して説明をしようと思っていたら、美術館側にはすごく前向きに捉えてもらい否定的な反応がほとんどなかったこと、そのような形でロダン彫刻を見ることは今までどこの美術館でもなかったが今回日本でできることを嬉しく思っていると語った。
「彫刻といえば?」と聞かれ上位にランクインしそうな解答「ロダンの《考える人》」が横になっていたら、相当なインパクトがあるだろう。日本で暮らしていれば美術に興味がなくても作品名を聞いてイメージが思い浮かぶはずだ。そして日本で暮らしていれば地震が引き起こすあらゆる諸問題についても身を持って経験しているはずである。小田原の展示プランは、日本に西洋美術館があることについて考えを巡らせるのに十分な喚起力を持つに違いない。
続いて鷹野が自身の展示プランを紹介した。
鷹野は以前より、美術作品をみることの難しさ、どうしたら美術作品とうまく付き合うことができるのかについて考える中で、美術館で目にする作品を自分の部屋に置いたらどう見えるのか試してみたいと考えていたそうだ。展示室の中に現代の一般的な居室を作り、そこに館所蔵のいわゆる個人では手が届かないような名画を置いて、自分の部屋でも価値のあるものとして見ることができるのか?訪れる来場者にも問うような展示にするという。
展示に使用するIKEAの製品は、権威を示すともされる「装飾性」を徹底的に排除し、その上で美しいデザインをしつらえる、多くの人に安価で提供する、というモダニズムデザインの極地だとも述べていた。美術館という権威ある場に飾られてきた名品と鷹野自身の写真作品が、そのような権威性を排除した現代的デザインの家具や日用品の中に並置される。その可笑しさは一般の来場者にもすぐ感じ取ってもらえるだろう。そしてもしかしたら若いアーティストたちは似たようなIKEA部屋に帰って美術作品を制作するのかもしれない。
さらに鷹野は権威の否定という観点について、全てを否定して破壊しようとするのではなく、美術館が持つ権威については批評性を持ちつつも、美術館は「過去」の保管庫でもあるため現在生きる人との対話の積み重ねによって新たな未来が生まれることを忘れてはいけないと強調した。
新藤はそれに補足するように、もちろん作品は芸術家のためだけにあるわけではない中で、館設立の原点にあった「美術館はアーティストのためにあってほしい」というのは分かりやすいスローガンであったこと、しかしそれが忘却されている今、皆の力を借りることで、鷹野が言った意味での、過去は再解釈することもできるし過去を裏切ることによって重んじることもできるのだと述べた。
トークテーマは「アーティストが美術館について論じること」に移っていった。筆者としてはこのことこそが本展の核となる部分であり、参加アーティストたちによる、展示だけに限らず具体的な文字や声を伴った議論や主張がなされることでもさらに本展の深度が増していくのだと考えている。トークを聞く会場の雰囲気も引き締まったように感じられた。
梅津は先ほどの鷹野の発言を引きながら、「美術館ないし歴史を全て否定したら元も子もないという意見があるがそう簡単に否定し尽くせるわけでもないし、作家が美術館を批判しながら美術館での展示は行うという共犯関係もあったり、そもそも今では美術館の権威が落ちてきていたり、美術館という場への批評・批判を巡る問題は複雑化している。しかしそういった問題を抽象的に包んでしまうとそれこそ覆い隠されてしまうので、そうではなく実名を出してでも批判する、そしてそれに対して責任をとるとか。顔色を伺いながらまわしていこうという現代美術界の雰囲気を今回の展示でちょっとでも揺るがせられたらいい。」と問題へ真っ向から切り込む姿勢をみせた。
小田原も参加が決まったのち、出品作家のジェンダーバランスをもう少し考えて頂けないかといった声を上げていたようだ。「こういうことを内側からしていくのはとても重要で。今回、西光万吉の掛け軸を展示するが、被差別部落の表現や当事者の作品がどういう風に覆い隠されてきて、いないものとされてきたか、そもそもそれが議論にすらならない状況があったのではないかといった問題を掘り返さないと、自分が参加する意味がない。今回の参加アーティストは率直に議論できる方が招かれているだろうし、言論の場が展覧会を通して作られ、そこから未来が開かれていくのだと考えている。」と述べ、自身の活動の信念をかけて臨む姿が印象的であった。
最後に、質疑応答での様子をレポートしたい。
〔1〕レビューとレポート記者(筆者)
Q:問いかけに対するクロージング(締め)の場は?
新藤
A:関連プログラムとして3月23日(土)に、登壇者は梅津、小田原、布施琳太郎、松浦寿夫、司会は新藤というメンバーで公開座談会を予定している。
白熱の予感がするが、3月12日から会期が始まって間もない時期に設定されているため、「未来のアーティスト」ら来場者の反応までは拾いきれないだろうか……。しかしこのシンポジウムが確かな歴史の一幕となることを願っている。
〔2〕美術手帖記者
Q:観客はどのような反応をすべきなのか?どのような反応を期待しているのか?またアーティストとそうでない人の境界を今回の展覧会ではどのように扱うのか。
新藤
A:美術館はいかなる人にとっても思考や想像力の故郷になり得るし、そうあってほしいし、そうあらねばならない。アーティストとそうでない方の境界は曖昧だが、今回参加の續橋さんのようなアマチュア的に活動される方に入って頂くか入って頂かないかによって本展のフレームが大きく変わってくるだろうと梅津さんと議論し、館内で企画案を通した。本展は美術館はアーティストのためにあればいいというメッセージを発したいわけではない。誰もが何かしらの表現者になり得るし、その為にこの場を使ってもらえればと思う。
梅津
A:美術界は関係者だけでお客さんが足りたりコレクターも増えていたりして自己完結するジャンルになりつつあり、純粋な観客が少ない。興行として「この展示面白いね」と美術にそんなに興味がない人が見に行きたくなるようなものを我々は作らなきゃいけないと思っている。現代美術における観客とは一体どこにいるのかということをちゃんと考えないと、なんとなくインスタ映えするから行くとかそういう風になってしまう。観客が作り手になりたいなと思えるような入口も確保する一方、プロのジャンルとして一般の人が見ても「わくわくする」「楽しいな」と思えるような展覧会を作ることは同時に大事である。自分がおこなっているような内部の制度批判は外側の人からすると関係ない。なので、内側の制度批判をするにせよ、外から見た人も楽しませるというサービス精神も大事だと思っているし、観客とはどこにいるのかということこそが、現代アートを考えるためには重要な問いである。
小田原
A:今回出品するものは何一つ自分の手で作っていない。来場者の中には「こんなの自分でもできるよ」と思う方もいるかもしれないが、むしろそれでいいんじゃないか。美術教育の中で、芸術家であるか否かというのが人を判断する基準になってしまっていることがとても悲しい。あらゆる人が表現ができてあらゆる人がアーティストになれる。今回の会場はカーペットを敷いてロダンの彫刻と一緒に寝転ぶことができ、「あの時美術館に足を運んで寝転んで彫刻を見たけれども一体どういう意味を持っていたんだろう?」と後からでも考える人がいたらいい。ハードルを高くしたくないので、梅津さんが仰ったような写真を撮る行為などは全く問題なく、そういう入り口で来てくれた方が「あっこれは何だろう?」と思った時に「実は……」という語りかけができる場をたくさん作っていかなきゃいけないし今回がその機会となるように努力したい。
鷹野
A:自分が何者であるかということを問うこと自体が近現代の考え方である。今回の展示では、社会の制度として自我のあり方が現代と全く異なる時代に描かれた絵を展示するが、それが現代的な空間に置かれた時の違和感がどれだけ見えてくるのかを伝えることができれば面白いと思う。現代に生きる我々は自分が何者であるか、自分で規定して見つけていかなければならないし、自由すぎるゆえにずっと考えなければならないというある種の病みたいなのものを抱えている。それについての1つの問いかけになるといいなと思っている。
〔3〕読売新聞記者
Q:今後継続的に現代美術と関わっていく覚悟があるのか?「ロダンの彫刻ひっくり返していいのか!」などの声もあるかもしれないし、何かあった時にどこまで館長として引き受けるのか。豹変したり無責任な態度をとったりする方もいるので……。
田中
A:いや、私も逃げるかもしれないですけど……笑(会場笑い)。それは冗談として、今後の西洋美術館と現代美術の関係をどうするかについては具体的には決まっていない。今回の経験を踏まえ「この先どうやっていくのか」「どういうやり方がいいのか」考えていければと思う。「何かあった時」については対処せざるをえない。
注記
[1]松方コレクションとは、明治の元勲で内閣総理大臣も務めた松方正義の三男で、川崎造船所(現・川崎重工業株式会社)初代社長の松方幸次郎(1866-1950年)によって収集された美術品。彼が手に入れた作品の総数は1万点以上に及ぶといわれている。「日本に何千人の油畫描きがいながら、その人たちはみんな本物のお手本を見ることもできずに、油畫を一生懸命に描いて展覧會に出している。私はそれが氣の毒なので、ひとつわしがヨーロッパの油畫の本物を集めて、日本に送って見せてやろうと思っている。」――松方幸次郎(矢代幸雄による回想)
・国立西洋美術館/松方コレクション
https://www.nmwa.go.jp/jp/about/matsukata.html
・川崎重工業株式会社/松方幸次郎|THESTORIES
https://www.khi.co.jp/stories/articles/vol31/
[2]續橋仁子(つづきばし ひとこ)は、1934年生まれ、神奈川県相模原市を拠点に活動する作家。本格的に油絵を描き始めたのは40代になってからで、美術手帖2020年12月号「特集 絵画の見かた」掲載のインタビュー記事では、「公民館や個人宅で開かれる主婦たちのサークルのような集まりで、色づくりや構成の基本から、厳しく指導していただきました」「(1985年第70回二科展で初入選した時のことを振り返って)自分の絵がどのように評価されるのか、『本物』なのかを試したくて、ずっと出品していました」「(二科展の会員が自分の過去作に似た作品を出品していたこともあったことを振り返って)立派な先生なら光栄です。自分が後なら気まずかったから『先で良かった』と安心しました」などと語っている。パープルームギャラリーにおいては2019年11月に開催された展覧会「表現者は街に潜伏している。それはあなたのことであり、わたしのことでもある。」で初めて紹介された。その後も日本橋三越本店コンテンポラリーギャラリーでおこなわれた梅津庸一キュレーション展「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」(2020年6月)、パープルームギャラリーでの「パープルストリート、秋の素敵な展覧会」(2020年10月)にも出展している。パープルームには定期的に續橋からの手紙が届くという。
・梅津庸一+美術手帖編集部「コラム:作家が語る公募団体展の姿 續橋仁子インタビュー」『美術手帖』1085号、2020年、94-95頁
・パープルームギャラリー/「表現者は街に潜伏している。それはあなたのことであり、わたしのことでもある。」https://parplume-gallery.com/283-2/
・日本橋三越本店コンテンポラリーギャラリー/「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」https://www.mistore.jp/store/nihombashi/shops/art/contemporary/shopnews0.html
・パープルームギャラリー/「パープルストリート、秋の素敵な展覧会」https://parplume-gallery.com/パープルストリート、秋の素敵な展覧会/
開催概要
ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか? ―国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ
Does the Future Sleep Here? ―Revisiting the museum’s response to contemporary art after 65 years
主催:国立西洋美術館
会期:2024年3月12日(火)~ 5月12日(日)
会場:国立西洋美術館 企画展示室(東京都台東区上野公園7-7)
開館時間:9:30 ~ 17:30 金曜・土曜日9:30 ~ 20:00 ※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日、5月7日(火) (ただし、3月25日(月)、4月29日(月・祝)、4月30日(火)、5月6日(月・休)は開館)※最新情報は国立西洋美術館公式サイトにて。
ウェブサイト:https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2023revisiting.html
本展関連プログラム
いずれも国立西洋美術館講堂にて対面形式で実施予定。公式ウェブサイトにて開催の詳細・申込方法の案内有り。
【スライドトーク】企画展<ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?>
講師:新藤淳
日時:①3月15日(金)18:00 ~ 18:40、②4月26日(金)18:00 ~ 18:40※手話通訳付き
※申込不要、当日受付(先着順)
【先生のための観覧日】
日時:①3月15日(金)15:00 ~ 20:00 ②3月16日(土)15:00 ~ 20:00
※事前申込制
【講演会】
1、「作品と作品をつなぐもの――解釈、応答、変奏」
講師:田中正之(国立西洋美術館長)
日時:4月20日(土)17:00 ~ 18:30(開場16:30)
※事前申込制
2、「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」
講師:新藤淳(国立西洋美術館主任研究員/本展企画者)
日時:5月11日(土)17:00 ~ 18:30(開場16:30)
※事前申込制
【公開座談会】
「現代美術のない美術館で芸術の未来を考える」
登壇:梅津庸一、小田原のどか、布施琳太郎、松浦寿夫(50音順)
モデレーター:新藤淳
日時:3月23日(土)17:00 ~ 19:00(開場16:30)
※事前申込制
※展覧会概要やプログラム名は変更になる場合があります。最新情報は国立西洋美術館公式サイトをご確認ください。
託児サービスのご案内
本展出品作家 田中功起の作品の一環として託児サービスが実施されます。
事前申込制です。詳細はウェブサイトをご覧ください。
https://www.nmwa.go.jp/jp/experience-learn/detail/event_63.html
展覧会カタログ
『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ』
章・作品解説、参加アーティストによる論考、アーティストインタビューなど。2024年3月12日(火)より国立西洋美術館ショップ、及び一部の書店にて販売予定。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784568105773
筆者プロフィール
Romance_JCT
普段は会社員です。
https://x.com/romance_jct
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