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博士課程で得た専門知識以外のもの(1)

大学の博士課程は、基本的には専門知識を身に着け研究者になるように
デザインされていると思います。
しかし、進学して得たものの中には、いわゆるジェネラルスキルに
相当しそうなものや、単に個人としてのわたしを幸せにしてくれた
ものもあります。
ここではそんな専門分野とは直接関係ないものを挙げてみたいと思います。

自学自習ができるようになった

自学自習力の必要性を感じている社会人の方は多いことでしょう。

個人的には、ビギナー中のビギナーは、まず先生に習う方が効率が
良い気がします。
というのも、専門書はその分野の慣習や則って書いてあることが多く、
それを理解していないと一向に読み進まず挫折してしまうことが
あるからです。
特に物理の場合、数学や物理のバックグラウンドがない人に向けて書かれた一般書と、学部1,2年生で読むような入門書の間には結構なギャップが
あるように感じます。
(社会人時代のわたしは幸いにしてこのギャップを自分で
 埋められなかったので、大学進学を決めることができました笑)
ビギナーのうちは自分だけで本を読んで勉強するのは諦めて、
さっさと他人を頼ってもよいのだ、と思えたのは収穫でした。

ある程度分野の全体像がぼんやりとでも見えてくると、自分に必要な文献にあたりをつけることができるようになるので自学自習が容易になります。
あとは、フォーカスして細かく見ていったり、少しだけ視界をずらして
隣接する分野を眺めてみたりと、このぼんやりした景色を種にして、
そこから自在に視点を変えて楽しむだけです。

わたしが自学自習をするうえで心がけていることを、2つ紹介します。

日々浮かぶ疑問を集めてそれを解消する時間を作る

わたしは、文献、ディスカッション、講義など、日々の活動の中で
「ん?」っと思ったものをメモするポストイットを常に持ち歩いていて、
それについて調べる時間を設けています。
疑問や違和感というのは、自分の分からないものを教えてくれる
マーカーとして機能するので、わたしにとっては宝物のようなものです。
分からないことが分かるようになるということは、より鮮明に、
広範囲な景色が見えるようになることに他なりません。
このマーカーは、将来的には研究テーマのインスピレーションを
与えてくれるものになるとも信じています。
調べても出てこない疑問は、まだ人類が知らないことだからです。

分からないことに向き合うのは、実はかなり勇気がいることだと思います。
わたしは自分の「賢くなさ」を実感するのが怖いです。
でも、わたしの疑問はわたし以外の誰も思いつくことができないもので、
いつかわたしを見たことのない景色へと連れていってくれる宝物です。
一旦「宝探し」と名付けてみると、ばかみたいな疑問が書かれた
ポストイットも愛おしく感じられるようになりました。

毎日宝探しをして、それを味わう(疑問について考えたり調べたりして
解消する)生活は実に楽しいものです。

時間がかかっても自力で理解する

講義や先輩・指導教員に直接教えて頂く時間というのは、わたしにとってはヒントを貰うような感覚で、知識そのものを教えて貰う時間ではないように思います。
わたしの理解力がないからかも知れませんが、他人に説明して貰うのは、
パズルのピースのしかも一部を、ばらばらに貰っているような
感じがします。
重要な点をかいつまんで伝えられているので、その時は分かったような
気にさせられますが、腹落ちした感じがしないことも少なくありません。
腹落ちするにはパズルを完成させる必要があって、そのためには足りない
ピースを集めたり、はめ込んでみてちゃんと形が合っているか確認する
必要があります。

わたしはパズルを完成させるために、論理の始点と終点を定めてその間を
少しの飛躍もなく埋める作業をしています。
この過程では、式や文章を何度も読み返し、たった1行を理解するために
たくさんの文献にあたる必要があることもしばしばです。
一見効率の悪そうな方法に見えますが、そういうものだと割り切って
しまえば進みが遅くても焦らなくなりますし、文献の調べ方もだんだん
上手くなっていきます。
何より本当に自分の手と頭で理解したものなので腹落ち感が違います。

腹落ちはとても気持ちがよく、報酬系を刺激されたような気分になります。


よく分からないことを分かったと思えるまで咀嚼できるようになった

分からないことに出会ったら、それを完全に理解したと思えるまで
convince yourself し続けなさい。

これは、尊敬する教授が度々わたしたち学生に向かって口にした言葉です。
convinceというのは「説得する」とか「納得させる」とかいう
意味ですから、「自分を納得させる」という感じの言い回しになりますが、これはわたしの感覚によく合っています。

わたしにとって、大学で学ぶことはたいてい、最初はよく理解出来ないものばかりで、自然と「今日学んだとこよく分からん」状態が普通の状態に
なってきました。
この「よく分からん」は、かつてのわたしにとっては非常に苦痛な状態で、これから逃げるために考えることをやめることも多かったように思います。
ただ「よく分からん」状態が普通になってくると、その日のうちに
それを解決できなくても、頭の隅に置いておくことができるように
なってきました。
いわゆるストレス耐性がついたのかも知れません。

そして、それを事あるごとに取り出しては、ぼんやり考えたり、
文献にあたったり、時には諦めて再度隅っこに追いやったりして
ずっと頭の中に住まわせておくと、気づいたときに「よく分からん」が
「何か分かる」になっていることがあります。

多分これが、convince myself できた瞬間なのだと思います。

つまり、「理解した」のではなく「納得した」なのです。
この段階まで自分を導くのが実は一番大変なのではないかと感じています。
なぜなら、一度 convince myself してしまうと無理なく頭の中に
置いておけるようになるからです。
そうなると、どこが分からないのかを具体的に書き出して調べたり、
道具として使い倒したりすることで、「理解した」に実感できる形で
着実に近づいていくことができます。
この作業は、その前段階と比べると格段に楽に思えます。

日々降り積もる「よく分からん」との共存が可能になったことで、
以前のわたしより新しいことに粘り強く取り組めるように
なったと思います。


自分と感覚の近い人々の輪に入れた

社会人をしていた頃は、勉強や知識に関する姿勢において周囲の人との
齟齬があり、何となく居心地が悪い思いをしていました。

わたしにとって最大の報酬は、「分からなかったことが分かるように
なること」です。
なるほど!という瞬間が好きだし、それが簡単には理解できない内容なら
尚更燃えて、それに挑むプロセスも喜びに満ちていて、
分かったと思えた時には人生のどんな瞬間よりも脳汁が
ドバドバ出てくるような人間です。
明日役に立つ知識も、人生で一度も使わないであろう知識も、
興味がわけば同等に扱って吸収しようとします。
なぜ学ぶのかと訊かれたら、楽しいから、としか言いようがありません。
裏を返せば、得た知識を利用するという動機が低いとも言えます。

わたしが社会人時代に出会った人々を勝手に分析してみると、
わたしのような感覚の人は一人しかいませんでした。
(背中を押してもらいたかったわたしは、唯一似た感覚を
 持っていそうだったその人に、退職して大学に行きたいと
 思っているんですけどどう思います?という回答に困る相談を
 ぶちまけました。真摯に対応して下さったことに感謝しています。)
興味の対象は様々ですが、研究熱心な方々には、
生活をよりよくしたいとか、こういう社会にしたい、みたいな
達成したい具体的な目標があって、その為に勉強したり
試行錯誤されている印象でした。

分かるようになりたいという欲求だけしかなく、その後の具体的な目標が
なかったわたしは、どこかで引け目を感じていたように思います。

学術論文でよく目にする、「~の理解は大切だ」といった表現からも
分かるように、アカデミアでは「分からなかったことが分かるように
なること」も一定の価値があるものとして扱われています。
そこには、明日の自分の生活を豊かにすることや、
明日の社会をより良いものにすることより、この世界がどうなっているか
の方が断然気になるという人がたくさんいます。
それにかまけていても何となく許されるような、その気風のやすらかさに
救われて、わたしの精神は以前よりずっと健康になりました。

これからは、自分と人類のが分からないことを分かるように
していくことが、仕事になればいいなと思っています。

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