知性という物差しを持つこと
現代は情報の民主化が進み、誰もが簡単に情報を取得できるようになりました。
ある調査によると、現代人が一日に触れる情報量は、江戸時代の一年分、平安時代の一生分にあたるそうです。
単純に考えれば、一人一人が得られる情報量が増えれば、それだけ一人一人が賢くなりそうです。
しかしそれで人間が賢くなっているかというと、多分そんなこともなく、むしろ我々の知的能力は退化の一途を辿っているのではないか、というのが僕個人の感覚であり、それが今回この文章を書こうと思った背景です。
例えば、今はS N Sで有益な情報を発信しているインフルエンサーが多く存在していますが、彼らのツイートに対する反応などを日頃見ていると、受信者に意図や意味が全く伝わってないことが多いなと感じます。
もちろん発信者側の伝え方にも問題はあるのですが、その人の発信を見ていれば分かるようなことを平気で質問してしまう、といった事態が度々観測されます。
今回のnoteでは、なぜそのようなことが起こるのかについて考えていきたいと思います。
1.見たいものを見て、信じたいものを信じている
これは占いがいい例です。ボジティブな診断結果とネガティブな診断結果があった場合、多くの人は前者を信じようとするのではないでしょうか。恋愛でも同じようなことがあります。彼氏と別れようと思っている時に周りから「その男はクズだからやめた方がいいよ」と言われたら「やっぱり自分は正しかったんだな」と安心し、その発言を信じようとする。もしも反対に「その男はすごくいい男だよ」と言われたらどうでしょうか。自分の中の「別れたい」という思いが揺らいでしまいます。そして、彼がいい男だとしたら、問題は自分にあるということになってしまい、自己正当性が崩れてしまいます。結果、信じることが困難になります。
このようなことが最近S N Sで多く見られるようになったと感じています。自分に都合の悪い情報はシャットアウトして、自分の考えを後押ししてくれて、安心感を補強してくれるような情報ばかりに目がいってしまう。これはS N Sの構造によってさらに加速していきます。まさにフィルターバブル(ネット上のアルゴリズムによって自分の趣味嗜好に合わせた検索結果やサイトへの誘導がなされることで価値観が固定化されてしまう現象)の中で僕たちは生きているのです。
もちろん、「見たいものを見て、信じたいものを信じる」ことが必要な時もあると思います。むしろ、それがないと僕たちの人生は非常に生きづらいものになってしまうでしょう。しかし、気づかぬ間に、僕たちが本来直視しなければならない真実が覆い隠されてしまっていることに、もう少し自覚的にならなければならないのです。
2.主張のアイデンティティ化
本来、主張とアイデンティティは切り離されているものだと思います。例えばTwitterである人が「人は本当に愛していれば、必ず一日以内に連絡を返すはずだ」というツイートをしたとします。これは単なる主張に過ぎないのですが、仮にこのツイートに「そんなことはない。連絡が返せないのは何か個人的な事情があるのではないか」というような反論が来たとして、そこで主張した本人がイラッとしたのであれば、それは主張がアイデンティティ化していると言えます。あくまでもその反論は人格に対しての言及ではなく、主張に対する言及なのです。
もう一つ他の例を挙げます。楽観主義者と悲観主義者がいたとします。楽観主義者は「ネガティブに考えても物事は好転しない。他者を信頼したり、人の持っている善意を信じたりすることが人間関係においては重要である」と言います。一方で悲観主義者は「ポジティブに考えすぎると現実を正しく把握することが困難になる。悲観的に考えることこそ洗練された知性だ」と言います。このような主張はある種の対立構造を作り出します。楽観主義者は悲観主義者を否定的に見ていて、悲観主義者は楽観主義者を否定的に見ています。しかし、どちらの主張も時と場合によっては正しく、大切なのは、絶対的な正しさはないという見方を持つことだと思います。このように、主張がアイデンティティ化したり対立構造が生まれたりすることによって、価値観や考え方が固定化され、新しい情報や異なる情報が自分の中に入っていかなくなるのです。
3.知性という物差しの欠如
これがこのnoteの核となるメッセージなのですが、僕たちは知性という物差しを持つ必要があると思います。簡単に言うと、情報を「批判・吟味・検証・解釈」しようとする姿勢のことです。
僕たちは気づけば、まるでザルに水を流すように情報を取得しています。見ているようで見てない、分かっているようで分かってない、考えているようで考えてない、みたいな感じです。タイムラインをスクロールしながら流し読みをして、少しでもいいことを言ってそうだったら、少しでも共感できそうだったらいいねを押す。このようなS N Sの使い方をしている僕たちは、たくさん情報には触れてはいるけど、そこに思考が介在していないので、頭の中や心の中には何も残ってないのです。
もちろんS N Sの使い方は個人の自由ですが、どうせ情報に触れるのであれば、もう少し有意義な使い方ができればいいなと思います。
これはS N Sだけのことに留まりません。僕たちが誰かを好きになる時も、同じような現象が起きています。今回のバチェロレッテ2がいい例です。見た目が美しいから、よく笑ってくれるから、気を遣えるから、一緒にいてドキドキするから、それだけの理由で「あなたのことが好きです」と言って短絡的に判断を下してしまう。もちろん人を好きになることは素晴らしいことですが、これで相手と真剣に向き合えているのかどうかは甚だ疑問ではあります。
話が少し逸れましたが、本来学びというものは自己を拡張していくものだと思います。見えなかったものが見えるようになったり、目を背けていたことが現前化したりしていくことです。これらの現象は当然、痛みが伴います。なぜなら、それは一種の自己否定だからです。自分の無知や未熟さを直視することになるからです。
僕自身の人生を振り返ってもそうでした。何かを学んだり、何かに気づいたりする時、大抵それは手痛い失敗なり、呻くような失望なりが先行していました。そしてその痛みなり失望を経て、これまで自分がやってきたこと、知っていたことは、大きな欠落があって通用しないことを痛感します。しかしそれをバネにして、ようやく伸び上がり、跳躍することができていたような気がします。学びや気付きは痛みと同等なのではないかと思うのです。
4.インプットする時に大事な視点とは
僕たちが何か情報に触れてインプットする時、以下のような視点が必要なのではないかと考えます。
・その発信者は信頼できるか
・その発信者の意図は何か
・その発言者はなぜその言葉を、なぜその言い回しを使ったのか
・その発言者はどのように物事を捉え、考えているのか
・その発言は論理的かどうか(因果関係は正しいか)
・その発言を信じようとしている自分はなぜ信じようとしているのか
・その発言は他のことにも言えないか
・その発言をこれまでの経験やこれからの実践と結びつけるとしたら何か
・その発言は自分の人生に必要なものか
情報は信じるものではなく、考えるきっかけにするものなのではないでしょうか。
僕たちは自分で考え、自分で人生の選択をすることができます。しかしそんな当たり前のことが、いつの日かできなくなってしまう時があります。得る情報も、関わる人間も、所属するコミュニティも、在りたい姿も、全て選択できるのです。自分で責任を持って、選択をする。それが僕たちに必要な知的態度なのではないでしょうか。