文章が書けない日に僕が思うこと
僕は文章を書き続けなければならない。そうなんだ。僕に圧倒的に足りないものは量。書いてきた量が少なすぎる。故に文章を書くことを一つの運動として身体化できてない。
今の僕の状態を述べるとするならば、文章が全く書けない。言葉が何も出てこないのだ。言葉が頭の中でパッと浮かんでそれを文字にしてみるが、そこから言葉が何も繋がっていかない。全てがぶつ切りで関連性を持たない。形になろうとした瞬間にふっと消えてしまう。こんなことは滅多にないんだ。僕はさっき書く量が足りないと言ったけれど、書くことを仕事にしてない人達よりは多分書いていると思う。でも、これまで文章を書いてきた経験の中で、ここまで書けないのも珍しい。だから僕は諦めて文章が書けないという今の状態を文章にすることに決めた。これは幾分賢いやり方である。
なぜ僕は今文章が書けないのか。冷静に考えてみる。おそらく身体が硬直しているのであろう。言葉が自分の内側で制御されているのだ。この状況を変えるためには、自分の内部に深く潜っていき、引っかかっているものを取り除かなければならない。しかし、今僕は自分の内部に潜り込むこともできず、故に引っかかっているものが何かも分からない。悲惨な状況なのだ。この場合はどうしたらいいのだろう。健全な人間は放置することを選ぶのかもしれない。僕もそれが一番妥当であると思う。しかし、今までの経験を振り返ってみると、僕は調子のいい日にしか文章を書いていないのだ。何となく文章が書けそうな予感がする日、そして一文目が自分の頭の中ではっきりとイメージされている時。今までそんな日しか書いてこなかった。しかし、調子がいい日にしか書けないようでは、僕は一生自分の身体に踊らされる羽目になるし、調子が悪い時でも何とか書けるようになる力が今の僕に必要なのではないか。だから僕は今までずっとMacBookの画面とにらめっこを続けてきたのだ。正直言ってこれはかなりの苦痛である。逃げ出したい。早く思考停止状態になってくだらないYouTubeでも見たい。でもそれでは同じことの繰り返しになってしまう。人間は今の状況を変え続けなければ途端に腐敗する。僕は毎日その恐怖を胸に抱えている。とにかく怖いのだ。文章が書けなくなることも書けないことによって動かない自分も。だからできない日はできないなりのやり方を見つける必要がある。今僕がやっている行為がまさにそれだ。こんな感じで1000字まで到達した。
今回の文章の出来は確かに悪い。自分でもはっきりと分かる。何故なら、普段は後半で溶けるような歓喜に包まれるからだ。いわゆる自画自賛である。今回はそれが全くない。読み返したいと思わない。でも読み返さなければならない。
最後に、苦痛の中で叫びながらも何とか重たい身体を一歩一歩前進させることに成功した自分を褒め称える。