俳句とからだ 180 言葉と身体感覚
連載 俳句と“からだ” 180
三島広志(愛知県)
言葉と身体感覚
COVID-19は二年近く医療体制や経済、身近な生活などに大きな影響を与え続け、未だ先が見えない。自分自身、移動はほとんど歩行か自転車。会食せず、通販多用、散髪はヘアカッターを使用し自分で刈っている。多少の虎刈りなどこの年齢に成れば何ら臆すことは無い。
髪を刈りつつふと思った。柔道には「刈(り)」という技が多い。大外刈、小外刈、大内刈、小内刈など。いずれも相手の脚を刈り倒す技だ。さらに柔道には「払(い)」という技もある。送足払、出足払、払釣込足など。刈ると払う。創始者は明確に名称を使い分けている。それは技の特徴を示しているからだ。大辞林によれば刈るは「草・毛など生えているものを、根元を残して切り取る」、払うは「じゃまなもの、無益なもの、不要なもの、害をなすものなどを除く」となる。お祓いも払うと似ており厄災を払ってその場から除去する神事となる。
刈田尽き荒磯の白き波を見る
山口青邨
刈るは根元を残して切る行為だが一気に素早く刈る一瞬の時間が特徴、対して払うは払いのけた後に何も残さないという空間状況が重要に思える。柔道の小内刈は相手の脚をザクッと鋭く刈り取るように仕掛けるのでその場に落ちるように決まる。出足払はタイミングを計りながら足を柔らかく密着させ払うため、相手は全身が浮き上がるように投げられる。速度よりも足を払い除けるイメージだ。
橋に出て屏風掃きけり煤払ひ 原石鼎
東北大学名誉教授生田久美子に『わざ言語』(慶應義塾大学出版会)という著書がある。古来、わざの伝承は「感覚の共有を通して『学び』へ」導かれていた。そこでの言語を「わざ言語」と説く。まず特定の行為の発現を「促し」、ある種の身体感覚を持つように「しむけ」、自らの到達点を弟子に「突きつける」のだという。その間、直接的な言葉ではなく身体感覚の共有を通じて伝承が行われる。それを「わざ言語」と命名した。「わざ言語」は修行の長い過程で繰り返し「教える者」から「学ぶ者」に発せられる。「教える者」から発せられた卓越した表現は極意として記されたのではないか。柔道の極意は「押さば引け、引かば押せ」「押さば回れ、引かば斜めに」と伝えられている。
では技の名前はどうだろう。小内刈や出足払はそれ自体が「教える者」の到達点を示していると考えられる。先人達が苦悩の末に見出した極意が実は既に技の名として命名されていたのである。
あるだけの明るさの中麦を刈る
阿部風々子