キンシャサの奇跡(俳句とボクシング)
碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり
たとふれば独楽のはぢける如くなり 高浜虚子
昭和12年3月20日『日本及日本人』碧梧桐追悼号
1974年10月30日、ザイール共和国(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサの「5月20日スタジアム」に於いてプロボクシングの歴史的試合が行われた。グローブを交えたのはWBA・WBC世界統一チャンピオン、ジョージフォアマンと挑戦者モハメド・アリである。後に「キンシャサの奇跡」と呼ばれるこの試合はボクシングはおろかスポーツというジャンルを超えて今日でも語り草となっている。アフリカで行われたのは二人のルーツがアフリカだからという触れ込みだった。
この試合は日本時間の30日午後1時からテレビ放映された。夜には再放送されるが待ちきれない人たちはデパートの電化製品売り場のテレビに群がった。当時20歳の大学生だった私も授業をサボって駅前デパートのテレビの前に陣取って試合を待った。
チャンピオンのフォアマンは「象をも倒すパンチ」と形容されるハードパンチャーである。当時ヘビー級のトップで鎬を削っていたジョー・フレージャーやケン・ノートンを2Rで倒して向かうこところ敵無しという圧倒的な強者だった。1949年生まれで貧しい家庭に育つ不良少年だったがボクシングで更生、1968年メキシコオリンピックのヘビー級金メダルを獲得。25歳の若さ溢れる怖い物知らずのファイターだった。
対するアリは1942年生まれで当時32歳。1960年、ローマオリンピックのライトヘビー級で金メダル。1964年に22歳の若さでヘビー級チャンピオンとなる。それ以降本名のカシアス・クレイを改めイスラム教徒としてモハメド・アリと名乗る。脚を止めてど突き合うだけのヘビー級に軽量級のフットワークを取り入れ「Float Like a Butterfly. Sting Like a Bee.
(蝶のように舞い、蜂のように刺す)」と形容された。しかし、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことから1967年に王座を剥奪された。徴兵拒否の理由は「I ain’t got no quarrel with those Viet Cons.(俺にベトナム人を殺す理由は無い)」ということだという。アリの徴兵拒否は大きな社会問題となり、公民権運動とも関係した。リングではなく法廷でも闘ったアリに対して連邦最高裁は1971年6月、アリの有罪判決を破棄することとなる。3年7カ月のブランクの後、1970年に復帰したが、奇しくもフォアマンに叩き潰されたフレージャーに初の判定負け、ノートンには顎を砕かれて判定で敗れてしまう。その後両者に勝利してフォアマンへの挑戦権を得た。
試合は今でもYouTube George Foreman vs Muhammad Ali - Oct. 30, 1974 - Entire fight - Rounds 1 - 8 & Interview - Bing videoで観ることができる。1R、積極的に攻撃するアリ、対抗するフォアマン。しかし次第にアリはロープを背負い、さらにはロープに腰掛けての防戦が続く。顔をガードしボディーを打たせるが、巧みにフォアマンの後頭部を押さえパンチの威力を削ぐ。隙を見せれば鋭いパンチが顔を射貫く。攻めるフォアマン、守るアリ。次第にフォアマンを焦りと怒りが縛り付ける。「どうして効かないのだ」とセコンドに怒鳴る。アリは打たれながらも「どうした、おまえのパンチはこんなものではないだろう」と挑発し続ける。攻めあぐねるフォアマン、守りつつ虎視眈々と機を覗い、時に激しいパンチを放つアリ。やや膠着したような状況が6R、7Rと続く。苛立つのはフォアマンだけではない。会場の観客も世界中の視聴者も苛立ちを募らせていった。そしてフォアマンの疲労が明らかになってくる。打ちながらアリに凭れるシーンもあった。後にこの戦略をアリは「Rope a Dope(ロープの麻薬)」と呼んだ。フォアマンはロープを背負うアリを攻めつつ体力をすり減らす。まさにアリ地獄に堕ちたのだ。
8R、同じような展開である。アリは科学者のように冷徹な顔でフォアマンの心身の疲労度を観察し、ついに残り12秒、アリのパンチが5発鋭くフォアマンを打ち抜く。フォアマンはアリの前にゆっくりと半円を描くように倒れ込む。それはパンチが効いたというより心をへし折るパンチだった。8カウントで立ち上がったがレフェリーはフォアマンのダメージを考慮してそのまま10カウント、アリの勝利を告げる。
全盛期かつベビー級史上最強と思われたフォアマンと、全盛期を法廷闘争と大学でのスピーチに費やしたロートルのアリ。誰もがアリの勝利を祈りつつ無理だと思っていた試合の予期せぬ結末。かくして「キンシャサの奇跡」と呼ばれることになった。
アリは黒人差別と闘い、徴兵拒否で国家と闘い、その後パーキンソン病とも闘った。リング以外でも戦い続けたファイターだった。現役引退は1981年。1990年、湾岸戦争ではアメリカ人人質を救出するため病気をおしてイラクへ出向き大統領と面談の末成功。アトランタ(1996)やロンドン(2012)のオリンピックでは開会式に登場して人々を喜ばせた。2016年、74歳で死去。今日でも多くの尊敬を集めている。
フォアマンはアリ戦後、一年間休養して復帰。良い戦績を挙げ、後一勝すればアリへ挑戦できるところまで来たが、その試合の後半で失速して最終ラウンドにダウン、判定負けとなる。試合後ロッカールームで昏倒しイエス・キリストの存在を確信する神秘体験をする。後日「神の啓示を聞いた」と語っている。それを契機にキリスト教の牧師に転向する。28歳のことだ。そしてヒューストンの自宅近くに教会を建てると同時に若者の更生施設「ジョージ・フォアマン・ユースセンター」を開設する。嘗て貧しく荒んだ生活を送った自分のような若者に場所とチャンスを提供するためだ。しかし諸処の理由で資金難となり1987年、10年のブランクの後、ボクシングに復帰する。太った身体に人々は正気かと疑ったが1994年、20年ぶりに世界チャンピオンとなる。45歳のことだ。1997年を最後にリングには上がっていないが、その間様々な団体のチャンピオンを獲得した。引退宣言はしていないという。現在72歳、ヒューストンにあるTHE CHURCH OF THE LORD JESUS CHRISTで牧師をしている。
アリとフォアマンの違いは何だったのだろう。勢いと馬力で勝利を積み上げていた若いフォアマンに対して、アリはすでに全盛期を過ぎ「翅を失った蝶、針を無くした蜂」となっていた。そこでアリはフォアマンが短期決戦型であることを見抜いて戦術プランを立てた。アリは闘志と冷静さを併せ持っていた。世阿弥に「離見の見」という言葉がある。自分を離れて自分を見るもう一人の自分がいる。アリは激しい闘志と同時に自分を澄んだ気持ちで相対化する能力に長けていた。独楽が高速で微動せずあたかも止まっているかのように立っているときの状態を「澄む」という。アリは激しい闘いの渦中にいながら自らの心は独楽のように澄んでいた。フォアマンの厳しい攻撃を冷静に凌ぎ、隙あれば素早いパンチで仰け反らせる。一方のフォアマンには目の前の対戦者アリしか見えていなかった。自分のコンディションも戦略も見失った。結局ほとんど何もできないままリングに横たわってしまった。しかし、神の啓示を受けてからの彼はまるで別人と化し全く異なった人生を歩むこととなる。カムバックして闘う理由も教会の維持、貧しい子ども達を救う施設継続の為の資金を得ること、そしておそらくは何も出来ないままアリに負けた過去を改めて乗り越えるためだったのだろう。神と伴に生きることで自ずから「離見の見」を得たのではないか。
俳句は闘いでは無い。しかし自分の目指す方向へ力強く闘いを挑むが如く歩を進めた先人がいる。正岡子規、そして高浜虚子と河東碧梧桐だ。子規がいなければ、またもし彼が俳句に手を染めなければ、今日の俳句の世界は実に殺風景なものだったろう。そして子規の両翼を担った虚子と碧梧桐。運命の神によって計られたかのように出会った二人は、夭折した子規の志を受け止めつつ俳句の世界をおのおのの思想で展開していった。
平井照敏は講談社学術文庫『現代の俳句』のあとがき「現代俳句の行方」で「俳句を律する二要素に詩と俳(新と旧)という二つの因子をとり出し、その二因子の相克によって、近代の俳句史が展開してきた」と説いた。照敏はこの説を他の多くの著書でも展開している。要約すれば「俳」は「伝統、守旧、俳句性」、「詩」は「文学、芸術などを含む。俳句を新しいものに変えようとする欲求」となる。芭蕉は「詩・俳」二つの因子を合わせ持ち、蕪村は「詩」的傾向が強く、一茶は生涯を通じて「俳」を生きた。子規は「俳・詩」のバランスの取れた革新者であり、碧梧桐は「詩」を求めて猛進し自己分裂したが後のさまざまな俳句運動の萌芽となる。虚子は碧梧桐の暴走的な動きを危惧し「ホトトギス」を基盤として「俳」を守りながら大衆化を歩んだ。大衆化の停滞を嫌った秋桜子は「詩」を指向して「ホトトギス」を飛び出す。秋桜子の行動が後の新興俳句や人間探求派の端緒となる。戦後は表現や志向が複雑化しこれら二因子の相克では説明が困難となってきたが前衛俳句や社会性俳句の「詩」傾向から澄雄や龍太による「俳」への復権を経て今日に至っている。以上が平井照敏の説く俳句史観である。
現象の中に相反する因子テーゼ「正」とアンチテーゼ「反」を見出し、両者をアウフヘーベン「止揚」してジンテーゼ「合」が産まれ、ジンテーゼが新たなテーゼとなって次々と思考が運動することを弁証法性といい、その思考方法を弁証法という。最も身近な弁証法は対話である。照敏の詩と俳という二因子の相克とは弁証法に他ならない。
詩と俳の二因子は互いに影響し合いながら変化発展してゆく。方向性を間違えれば破綻へ向かうこともある。碧梧桐の独楽が弾けるような激しい改革から新傾向、自由律、無季や無中心、ルビ俳句と変化し、そのうねりへのアンチテーゼとして虚子が守旧派の旗を掲げて俳壇へ回帰するという大きな波が興った。虚子と碧梧桐は独立した存在だが同時に互いに影響し合う存在でもあった。つまり相対的独立と言える。対立する両者が影響し合うことを対立物の相互浸透と呼ぶ。一見すると相反する二人の活動が実は今日の俳壇や俳句表現を動かす基礎力になっているに違いない。マルクスの言葉を借りるなら「両者のおのおのは、みずからを完成することにより他のものを創造し、みずからを他のものとして創造する」となるだろう。(筆者は平井照敏の結社「槇」に所属していたことがある)
互いの力を認め合う相対的独立にある二人は刹那的な勝ち負けに関係なく切磋琢磨できる。その渦中では理解できなくとも闘いを離れて彼の存在が我を鍛えてくれたと思えるとき互いを認めることができる。矛盾しているようだが、そもそも先述したボクシングなどの格闘技は相手を信頼していればこそ思い切って打ち込める。自分の攻撃を受け止め躱して怪我をしないと信じればこそ全力で打ち込むことが可能となる。ボクシングは互いを傷つける喧嘩ではない。華々しくショーアップされた奥には選手同士の深い信頼関係があればこそ真剣に思い切って闘える。だからこそそこに素晴らしい相互浸透的な技の応酬が生じる。互いが互いの良さを引き出すのだ。音楽のセッションとよく似ている。
繰り返すが俳句は闘いでは無い。しかし虚子と碧梧桐は子規亡き後、それぞれの信念に基づいて別の道を歩み、異なる俳句観を実践した。互いの存在があればこそ自らの方向も明らかにできたのだ。だからこそ碧梧桐の訃報に触れた虚子は「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」と感慨を述べた。親しむことと争うことは同根なのだ。虚子は
たとふれば独楽のはぢける如くなり
と追悼の句を詠んだ。これは喧嘩独楽のことだろう。茣蓙で拵えた円形の土俵で二人が独楽を回し相手の独楽を弾き出す遊びだ。しかし掲句の場合、争うと言うより弾けるように激しく回転した碧梧桐の生き方を詠んでいる。
キンシャサの闘いでフォアマンとアリは独楽のようにぶつかり合った。最後、フォアマンは力尽きてアリを中心に半円を描いてゆっくりと倒れた。弾けはしなかったがまさに独楽が回転を止め、安堵するようにゆっくりとリングに落ちた。当時その試合を観ながら時間が止まったように感じた。リングに横たわるフォアマンと彼を見守るようにすっくと立つアリ。闘いは一人では不可能である。二人のファイターが互いの闘志と信頼の元に激しく拳を交える。その時点では明らかに勝者と敗者に分かれる。しかし、そこからが本当の人生だ。勝ったアリも敗者となったフォアマンもそれは過渡期のこと。それ以後の人生の有り様を含めて「キンシャサの奇跡」と呼ぶべきであろう。あるインタビューでフォアマンはアリの死を知った後こう答えている。
「自分の一部が無くなったように感じた。でも数日が過ぎ、アリは今でも自分の身体の中に生きている。私の中に彼がいる、と思うようになった。今日、この瞬間も、そう感じながら生きているよ。」
大地に根を張って生きる"BIG"ジョージ・フォアマンの言葉(林壮一) - 個人 - Yahoo!ニュース