“綺麗”なだけの青春はない
『最初で最後のキス』――いかにも青春なポスターと、いかにも青春な予告を見たときに「あ、これ絶対見たいやつだ」と思った。
私は、青春映画が大好きだ。
「ミーンガールズ」に「ウォールフラワー」、王道の「スタンド・バイ・ミー」は何度見ても泣くし、「スウィート17モンスター」は傑作だと信じてる。
音楽をガンガン鳴らして、学校のはみ出し者たちが絆を深めていく……もちろん、そこには恋愛も友情も絡んでいて、それぞれが悩みながら成長する。
予告で見せられたそのストーリーはまさしく、私好みだった。だから、そこに漂う不穏は見ないことにした。
嗅ぎ取ってしまった不安が、的中しませんように。そんなささやかな祈りを捧げながら、劇場ど真ん中、早起きして手に入れたシートにどんと腰かけた。
この物語の主人公は3人いる。
カッコいい年上の彼氏がいるせいで、男関係であらぬ噂を立てられているブルー。校門には「ブルーは〇〇マン」など書かれていて、それを見てひっそりと胸を痛める子がいる。
それが、2人目の主人公のアントニオだ。彼はバスケ部に所属していて、チームの得点源として活躍中だ。しかし、あまり勉強はできないらしい。内向的な性格から、バスケ部には馴染めていない。出来のいい兄が交通事故で亡くなってしまい、両親からの愛を一心に受け止めている。
そして、3人目の主人公のロレンツォ。彼は美しく、とてもハツラツとしている。都会の孤児院から引き取られ、ブルーとアントニオの暮らす田舎町へと引っ越してきた。
ファッションと音楽が大好きで、彼の身に着けているものはすべてオシャレ。派手過ぎるスタイルで、クラスメイトからは馬鹿にされている節がある。
彼はゲイだ。でも、それを隠すことはしない。どうやら、動きもちょっとゲイっぽいらしい。これはイタリア人にしかわからないことかもしれないが。
彼のセリフに「イタリア人の15人に1人はゲイだ」というものがある。私は大学時代にジェンダーを学んでいたときに、「確率的な話だとクラスに1人はいる。」と先生が話していたことを思い出した。
当たり前だけれど、LGBTQというものは私たちの生活の一部なのだ。わざわざ見せようとする人がいないだけで。
この「15人に1人がゲイ」というセリフがあり、私たちはこれは身近な物語なんだと認識を改めることが出来る。
転校生のロレンツォは隣の席に座るブルーと仲良くなる。互いに浮いた雰囲気というものを感じ取ったのかも。
自己紹介をしたときに、ブルーがロレンツォに言ったのは「ゲイの友達初めてよ」の一言だけ。はみ出し者のブルーには、偏見はない。彼をゲイという個性を持った男の子として受け入れる。
もしかしたら、ブルー自身も恋愛に発展しない男子という存在が心地よかったのかもしれない。
2人は急速に仲を深めていき、コイバナのようなこともする。ブルーには年上の彼氏がいる。ロレンツォはクラスで1人で過ごしているアントニオのことが気になっていることを打ち明ける。
だから、自殺はしないと心に決めているのだと、自殺したゲイが載せられているサイトを見ながら話す。
強くいるための決心は、ほんの些細なことだったりする。といっても、恋は自分をパワフルにしてくれる大切なエンジンだ。
彼らは自分の個性を受け入れて、受けいれようとしない小さなコミュニティのことは馬鹿にすることで気を紛らわすことにする。
「僕たちのすごさを、あいつらは知らないんだ。」
この思いによって、アントニオも含めた3人でいろんな試みをしていき、たくさんの人を傷つける。
傷つけられたからやり返してもいいなんて思わないけれど、正直スカッとした。
でも、そのせいでどこかに軋轢は生じてしまうのだ。彼らが生み出した誤差は、どんどん大きくなっていき、誰も止められないものとなる。
3人の仲が深まるにつれ、彼らは互いに自分の弱さを見せていくようになる。それはいい兆候といってもいいはずなのだ。
しかし、どんなに明るい場面でも画面はずっとグレーっぽく、スカッとした鮮明さはない。
この色が、あの閉鎖的な教室の雰囲気を作り出すのに一役買っているのだろう。
記憶のなかにある教室を思い出してほしい。制服を着ていた時に足を踏み入れていた、あの場所を。きっと、この映画から滲む色と同じではないだろうか。
ぼんやりと薄暗くて、でも注ぐ日差しは強く眩しくて。思い出すだけで、目を細めてしまう。
あの場所は、思春期の私たちの全てで、あそこで行われることは社会的にどういわれようが正義だった。
歪んでいるけれど、これは世界中どこでも共通しているものなのだと思う。
この映画で大好きなシーンがある。
3人で遠出した帰りの電車で、眠ってしまったブルーとアントニオに挟まれたロレンツォがセルフィーを撮るシーンだ。
このときの彼は、とても幸せな満ち足りた表情を浮かべている。校内でのダンスを踊ってみたり、大好きな古着をあさっていたり、そんなことをしているよりもずっと、幸せそうだ。
彼の持つ個性は、彼を孤独にするものだったのだと思う。
でも、新しい里親たちは自分のことを心配してくれ、新しい土地には自分を受け入れてくれる友人と、好きな人が出来た。
彼は“フツーの男の子”なのだ。でも、そのフツーが、ロレンツォにとっては遠い場所にあった。
みんな簡単に“フツー”というけれど、これは結構難しい。みんな違ってみんないいってやつだ。平均はあるけれど、それは基準にはならない。性格なんて、なおさら。
だから、学校という閉鎖的な空間で、気の合う人との出会えたことは奇跡だ。
それを私自身、痛いくらい知っている。だから、涙が止まらなかった。
ロレンツォが3ショットを撮っているとき、私の胸は痛くて痛くてぺしゃんこにつぶれてしまいそうだった。
ラストに向けて、物語は失速することはなく突き進んでいく。ラストシーン、大きなやるせなさに襲われて、私は茫然としていた。この感情をどこに持っていけばいいのか分からなくて、とにかく街をずんずんと歩いた。
思春期は歪んでいる。自分のことを振り返っても、周囲を見渡してもそう強く思う。事実を基にして作られたストーリーは、まさしくそのことをありありと表現していた。
1つボタンが掛け違えば、別の結末にたどり着く。人生における、そんな当たり前のことすら、私たちは見失うことが多い。
この映画は、ただの“作り物”ではない。私たちの生きる現実に、起こりえる物語だった。
くだらないと切り捨てられるレベルの道徳という授業で、私たちは“個性”が大切で、人に優しくすることが重要だと教えられる。
そして、なんの成果にも結び付かない話し合いをさせられる。
そんなことは全くの無意味だ。結局、世界は変わっていないじゃないか。私が中学生のころと同じままだし、それ以上に悲惨な現状を目にすることだってある。
くだらない時間を過ごさせるくらいなら、この映画を子どもたちに見せてほしい。
そして、完璧じゃない私たち大人と言葉を交わす時間を与えてほしい。そんな風に、強く思った。大人は完璧じゃない。
それも、この映画で伝えてくれていることだ。
どれだけ愛していても間違うことはある。“人間だから”と言ったら、それは逃げているだけだと子どもたちはいうかもしれない。
でも、永遠と思える学生生活が終わりを告げたときに、わかることだってある。それまでは分からなくていいから、分かったときは思い出して笑ってほしい。
思春期を過ごしている人たち、思春期が過ぎ去った人たち、まだ抜け切れていない人たちに、一度でいいから見てほしい。
眩しさと切なさのなかに、あなたに刺さるものが何か1つはあるはずだから。
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