12/31「愛しの砂そば」
大晦日といえば、蕎麦である。
大晦日になると台所に建立されるカップ蕎麦タワーは圧巻だし、利便性はいうことなしだ。それに、そこそこおいしい。けれどやっぱり情緒がないな、と思う。だからといって、寒い台所で一人蕎麦を茹でてまで食べようとは思わないし、なにせ一緒に食べる人もそんなに居ない。私の成長と共に歳を重ねた両親は、嗜むとはいえないほどの酒を飲んで早々に引き上げてしまうし、私もご相伴にあずかれば目が冴えたままの年越しは難しい。とにかく酔っていてもそうでなくても、ここ数年私は弟が一人でカップ蕎麦をすすっているのを眺めながら年を越している(たまに一口頂いたりもするが)。
わが家の年越しそばと言えば、祖父の手打ち蕎麦だった。毎年大晦日になると、新聞紙に包まれたそれが台所にどんと存在感を現す。近くに寄っただけで、蕎麦の香りがつんと漂って来てしてちょっとだけ背筋がしゃんとする。蕎麦なんて、幼い私には魅力的に映ることはなかったけれど、その新聞紙のインクと蕎麦が混じった香りはなんだか好きだった。
祖父の蕎麦は、正真正銘祖父以外が作れない蕎麦である。当たり前だ、と思うかもしれないが、本当にそうなのだ。あれから十数年、すっかり大人になった私はめでたく蕎麦が好きになったが、あの蕎麦はどんな店でも見ることはない。(入ったことないけど)高級店で出すような蕎麦ではないし、立ち食い蕎麦で出されるようなものでもない。値段をつけろ、とか、どのくらいのグレードとか聞かれても分からないけれど、とにかくお店でお目にかかることが出来ないということだけは確かである。
少し太めで、ぼそぼそとした麺には食べ応えがあった。何割蕎麦なのか分からないが、小麦粉は少なめで作られていたらしい。どう考えても、子供が食べて喜べるものではない。それでいて、茹でられたそれの表面は妙にツヤツヤと光っていて箸を進めたくなる。それに手打ちというだけあって、やはりスーパーで売られているものとは香りは段違いなのだ。
祖父の蕎麦づくりは蕎麦粉をひくところから始まる。祖父の蕎麦は、祖父の友人たちにも好評だったらしくとにかく張り切っていた。蕎麦の配達を手伝った時、受け取った人たちが顔をほころばせていたのをなんとなく覚えている。
祖父の蕎麦はとにかく香りの強い蕎麦だった。蕎麦粉には(多分)蕎麦ガラも含まれていて、時折じゃりっとした食感がある。弟はそれを初めて食べた時に「砂そば」と名付けた。妙にセンスのいいそれを聞いたときに、大人たちは「子供には難しいかねぇ~」と笑っていた。
―せっかく、じいちゃんが作ったのに!
平たく言わなくても分かるだろう、嫉妬である。本音を飲み込んだ私は、おいしい!と言って無理やり箸を進めていた。
幼い私は、この蕎麦はあまり好きじゃなかった。じゃりじゃりするし、つるつるっと喉を通っていってくれない。子供向きとは、到底言えないものなのである。しかし、大人は美味しそうに食べている。つゆもいらないくらいね、なんて口々に言いながら御機嫌なのである。それに何て言ったって、大好きな祖父が打った蕎麦なのだ。弟ほどの無邪気さがなかった私は「おいしい」と言って、無理やり腹に流し込んだ。たっぷりとつゆをつけて。
結局、私が祖父の蕎麦を食べたのは覚えているだけで3回ほどである。ほどなくして、祖父は体調を崩して蕎麦を打つ体力は無くなってしまった。祖父を引きついで、父も挑戦していたが2回ほど(もしかしたら、1回)でやめてしまった。それから、わが家の年越しには簡単早いカップ麺が登板しているというわけである。お湯を注いで3分で出来上がるそれのことは、私も好きだけれどなんとなく物足りない気がしてしまうのだ。
最近、祖父の蕎麦が食べたいなぁと思いだすことが多くなった。忘れられない味というやつなのかもしれない。あの頃の私がおいしく感じなかったあの蕎麦を、今食べたらどんな感想を抱くのだろう。やっぱり苦手だ、と思うのかな。そればかりは食べてみないと分からない。けれど、食べて確かめられたらいいのにと思う。それはもう叶うことはないのだけれど。
私は祖父に“砂そば”の感想を「美味しかったよ」と伝えた。それを聞いて、祖父が大きく頷きながら笑ってくれたのが嬉しかった。でも、弟がじゃりじゃりでまずかったと伝えた時も、それはそれで面白そうに大きな声を上げて笑っていた。それがなんだか悔しかった。
もっと素直に伝えればよかったのになぁ、と大人になった私は思う。それが、一番喜んでくれたのだということも分かってしまった。
とにかく、今、私はあの“砂そば”が猛烈に恋しいのである。