山形新聞「日曜随想」 2020年5月24日
昨年山形でも公開されたドキュメンタリー映画「ジョアン・ジルベルトを探して」をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。ボサノバの神様、故ジョアン・ジルベルトに魅入られたジャーナリストが、当時はまだ存命であったジョアンを探し求めて、彼の地を彷徨い歩く映画でした。この映画の中で、ジョアンの親友として登場するのが、もう一人のジョアン、ジョアン・ドナートです。
ジョアン・ドナートは1934年、アクレ州のリオ・ブランコに生まれ、その後リオ・デ・ジャネイロに住まいを移します。子供の頃から音楽的に早熟で、手にした楽器を次々と、そしてあっという間にマスターしていく、まさに天才だったと言います。15歳頃にはすでに、アコーディオンを中心に当時のリオの最先端のミュージシャン達とセッションを繰り広げる程になります。その頃リオで主流であったのは「サンバ・カンソン」という、夜の街や男女の情念を歌うものが多い、時代に取り残された音楽でした。それはすでに欧米からのジャズなどの洗礼を受けた若者達には、カビの生えた音楽に感じられたのです。新しい音楽を求める彼らの活動こそが、のちにボサノバ誕生の起爆剤となっていきます。1953年に録音されたオス・ナモラードスと言うグループの「サンバが欲しい」におけるドナートのアコーディオンは、後のジョアン・ジルベルトのギターのリズムを予見するものと言われています(アルバム「ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ」に収録)。
最初のボサノバということになっているジョアン・ジルベルトの「想いあふれて」がリリースされたのが1958年。しかしボサノバが広くブレークしたのは60年代初頭で、ドナートは1959年にはすでに米国に渡ってしまったため、彼はボサノバの最盛期を自国で体験していません。また1962年カーネギー・ホールで行われた伝説的なボサノバ・コンサートにも、当時ロサンジェルスにいたにも関わらず、手違いで参加していません。その頃彼はウェスト・コーストやニュー・ヨークで、ティト・プエンテ、モンゴ・サンタマリア、カル・ジェーダー、エディー・パルミエリ、ハービー・マンなどのジャズやラテンのアーティストたちと、先見的な演奏を重ねていました。その後1971年にはブラジルに帰国。しかしブラジルの音楽界に希望を持てなかった彼はそれから長い間沈黙を続けます。そんなドナートを再び表舞台に連れ戻したのは小野リサでした。1994年の彼女のアルバム「ミーニャ・サウダージ」で、ドナートを表舞台に引きずり出したのです。それ以降ドナートは、86歳の現在まで精力的に活動を続けています。
さてジョアン・ドナートはジョアン・ジルベルトと共に「変人」として名高く、遅刻や現場をすっぽかすなど、社会的規律に反することは常習であったようです。そんなドナートが2007年に山形に来ることになり、我々もかなり神経質になりました。しかし実際の彼は全く天真爛漫で、我儘も言わず、素晴らしい音楽を披露してくれました。ただし、山形駅の売店でサクランボのビニール風船が目に止まり、それを膨らんだ状態のまま購入したいと言って、会場への到着が少々遅くなってしまいましたが。
さて今回紹介するのは彼の「ケン・エ・ケン」という作品です。長年アメリカで暮らしていたドナートがブラジルに帰国した後(1973年)に録音されたもので、本人は嫌だったようですが、初めて歌を披露した作品です。お世辞にも上手いとは言い難い、囁くような歌ですが妙に味があります。ドナートの真骨頂は抜群のリズム感です。ゆったりとした軽やかな演奏でありながらそれを支える、強烈なグルーブがあります。自然に体が動きます。穏やかな日曜日に、春の日差しを感じながら聴いてみてください。
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