山形新聞「日曜随想」 2020年8月2日
ブラジル音楽界の巨星ギンガを迎え昨年4月、光栄にも山形公演を開催することができました。実はこの公演には、彼以外にもブラジル音楽を代表するアーティストに参加をしていただきました。管楽器のマエストロ、テコ・カルドーゾとナイロール・プロベッタ、そして女性歌手のモニカ・サウマーゾです。管楽器の2人の来県も、もちろんこの上なく嬉しかったのですが、女性シンガーの宝庫ブラジルでも現在最高峰の一人で、個人的に最も敬愛するモニカ・サウマーゾが山形に来てくれることに、興奮を禁じ得ませんでした。
モニカは1971年、サンパウロに生まれました。学生生活と並行してエドゥ・ロボ、ギンガといった著名アーティストのコーラスの仕事を始め、95年にはギタリストのパウロ・ベリナッチとの共演盤「アフロ・サンバス」でアルバムデビューを果たします。本作は非常に高い評価を受け、北米や欧州諸国でもリリースされました。彼女はギンガの音楽の「最良の表現者」とも言われ、2014年には彼の曲ばかりを歌った「コルポ・デ・バイリ」も発表しています。そのうっすらとベールを纏ったような神秘的な歌声は、しっかりとした歌唱でありながらどこか妖精のような、超自然的な霊感とおおらかな包容力を感じさせるのです。
実は彼女はこれ以前にも来日をしています。日本のジャズ界を代表するサックス奏者で、ブラジル音楽にも造詣が深い渡辺貞夫さんが「最も共演を望んでいた歌手」として彼女を招き、17年10月に初来日を果たしています。もちろん喜ぶべきことなのですが、これ以前からブラジル音楽のフィールドで彼女を日本に招聘したかった私は、実は少し複雑な心境でもありました。しかし彼女にとっての2回目となるこの来日は、盟友ギンガとの共演、そして山形での公演という恐らくはわれわれが望みうる最高の形で実現したのです。
しかし何もかも理想的に進んでいたはずの来日でしたが、ある事件が起こります。山形公演まであとわずか1カ月という頃、招聘元から切迫したメッセージが届きました。なんとモニカが足を骨折したというのです。来日公演には問題ないだろう、ということでしたが、果たしてどの程度の状態なのか見当がつかず、また来日まで時間もあり、一緒に来日する彼女の旦那さんのテコ・カルドーゾは医師でもあるので、心配しつつもどこか楽観をしておりました。
そして来日の当日、空港に到着したモニカの写真が届きました。そこには残念ながら、車椅子に乗って優しく微笑むモニカが写っていて、移動はまだまだ困難な状態でした。山形公演では、骨折している姿をできるだけ観客に見せたくないという彼女の希望で、楽屋からステージまでの動線を急遽パーティションで隠すなど、さまざまな対応に追われました。しかしステージ上での彼女の歌は、想像以上に美しくミステリアスで、この困難な状況でも完璧なパフォーマンスを見せてくれました。もちろん本人が一番大変だったわけですから、彼女のプロ意識には頭が下がる思いです。
さて今回紹介するのは、99年にリリースされた「ボアデイラ」という作品です。本作は日本盤も発売され、日本のブラジル音楽ファンの間でも彼女の人気を不動のものとした作品で、山形公演にも同行したテコ・カルドーゾとナイロール・プロベッタが参加しています。ドリバル・カイミ、アントニオ・カルロス・ジョビン、そしてギンガなどのブラジルを代表する作曲家たちの楽曲を丁寧に歌い上げた作品で、彼女の歌の魅力がストレートに堪能できる優雅な傑作だと思います。暑い夏の日曜日に、ゆったりと聴いてほしいアルバムです。
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