Money and the Individual(貨幣と個人)
本日紹介する、ロスバード『貨幣と個人』は、ミーゼス『貨幣及び流通手段の理論』の英語第2版のリプリント版(リバティ・ファンド、1981年)の序文である。この序文は、現在のリバティ・ファンド版でも読むことができる。
現在、日本に流通している東米雄による翻訳は、1924年のドイツ語第2版の翻訳である。よって、(1953年英語第2版にて付された)第4部とそれ以降の補遺については付されていないことに注意を要する。(この第4部については、ミーゼス・インスティチュート・ジャパンにて鋭意翻訳中である)
この序文においてロスバードが指摘したミーゼスの遡及定理に関しては、ロスバード、岩倉竜也訳『金100パーセントのドル』における本編と巻末の訳者による解説が特に優れているので参照されたい。訳者解説は、難解なミーゼスの遡及定理について簡潔な文章で説明しているので、初学者にも適していると考えている。
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○This foreword to The Theory of Money and Credit by Mises (1912) was originally published in the 1981 Liberty Fund Edition of Mises's book.
この序文は、ミーゼスの『貨幣及び流通手段の理論』(1912年)の1981年版(リバティ・ファンド版)に掲載されたものである。
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Money and the Individual(貨幣と個人)
マレー・ロスバード
上山祐幸(訳)
1 LUDWIG von Mises’ The Theory of Money and Credit is, quite simply, one of the outstanding contributions to economic thought in the twentieth century.
ルードヴィヒ・フォン・ミーゼスの『貨幣及び流通手段の理論』は、端的に言って、20世紀の経済思想における傑出した貢献のひとつである。
2 It came as the culmination and fulfillment of the “Austrian School” of economics, and yet, in so doing, founded a new school of thought of its own.
それは、オーストリア学派経済学における集大成であり、成就であったが、そうすることによって、独自の新しい学派(新オーストリア学派経済学)を創設したのである。
3 The Austrian School came as a burst of light in the world of economics in the 1870s and 1880s, serving to overthrow the classical, or Ricardian, system which had arrived at a dead end.
オーストリア学派は、1870年代から1880年代にかけて経済学の世界に一石を投じ、行き詰まりを見せた古典派(リカード派)を打破する役割を果たした。
4 This overthrow has often been termed the “marginal revolution,” but this is a highly inadequate label for the new mode of economic thinking.
この打破はしばしば「限界革命」と呼ばれてきたが、これは新しい経済的思考様式に対する呼び名としては極めて不適切である。
5 The essence of the new Austrian paradigm was analyzing the individual and his actions and choices as the fundamental building block of the economy.
ニュー・オーストリアンのパラダイムの本質は、個人とその人間行為と選択を経済の基本的な構成要素として分析することにあった。
6 Classical economics thought in terms of broad classes, and hence could not provide satisfactory explanations for value, price, or earnings in the market economy.
古典派経済学は大まかな階級という観点から考えていたため、市場経済における価値、価格、収益について満足のいく説明をすることができなかった。
7 The Austrians began with the actions of the individual.
オーストリアンは、まず個人の人間行為から始めた。
8 Economic value, for example, consisted of the valuations made by choosing individ- uals, and prices resulted from market interactions based on these valuations.
経済的価値は、例えるならば、個人が選択する際の評価から成り立ち、価格はその評価に基づく市場の相互作用から生じるとする。
9 The Austrian School was launched by Carl Menger, professor of economics at the University of Vienna, with the publication of his Principles of Economics (Grundsätze der Volkswirtschaftstehre) in 1871.
オーストリア学派は、ウィーン大学の経済学教授であったカール・メンガーが、1871年に『国民経済学原理』(Grundsätze der Volkswirtschaftstehre)を出版したことから始まった。
10 It was further developed and systematized by Menger’s student and successor at Vienna, Eugen von Böhm-Bawerk, in writings from the 1880s on, especially in various editions of his multivolume Capital and Interest.
オーストリア学派は、メンガーのウィーンでの教え子であり後継者であったオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクによって、1880年代以降の著作、特に彼の多巻にわたる『資本と利子』の様々な版において、さらに発展し体系化された。
11 Between them, and building on their fundamental analysis of individual valuation, action, and choice, Menger and Böhm-Bawerk explained all the aspects of what is today called “micro-economics”: utility, price, exchange, pro- duction, wages, interest, and capital.
メンガーとベーム=バヴェルクは、個人の評価、行動、選択に関する基本的な分析を基礎として、今日「ミクロ経済学」と呼ばれているもののあらゆる側面、すなわち効用、価格、交換、生産、賃金、利子、資本などについて説明した。
12 Ludwig von Mises was a “third-generation” Austrian, a brilliant student in Böhm-Bawerk’s famous graduate seminar at the University of Vienna in the first decade of the twentieth century.
ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは「第三世代」のオーストリアンであり、20世紀最初の10年間、ウィーン大学のベーム=バヴェルクの有名な大学院ゼミに在籍した優秀な学生であった。
13 Mises’ great achievement in The Theory of Money and Credit (published in 1912) was to take the Austrian method and apply it to the one glaring and vital lacuna in Austrian theory: the broad “macro” area of money and general prices.
ミーゼスが『貨幣及び流通手段の理論』(1912年出版)で成し遂げた偉大な功績は、オーストリアンの手法を、オーストリア理論の欠落点である、貨幣と一般物価という広範な「マクロ」の領域に適用したことである。
14 For monetary theory was still languishing in the Ricardian mold.
というのも、貨幣理論はまだリカードの型にはまったままだったからだ。
15 Whereas general “micro” theory was founded in analysis of individual action, and constructed market phenomena from these building blocks of individual choice, monetary theory was still “holistic,” dealing in aggregates far removed from real choice. Hence, the total separation of the micro and macro spheres.
一般的な「ミクロ」理論が個人の行動の分析に基礎を置き、個人の選択の構成要素から市場現象を構築していたのに対し、貨幣理論は依然として「全体論的」であり、現実の選択とはかけ離れた集計を扱っていた。それゆえ、ミクロとマクロの領域は完全に分離していた。
16 While all other economic phenomena were explained as emerging from individual action, the supply of money was taken as a given external to the market, and supply was thought to impinge mechanistically on an abstraction called “the price level.” Gone was the analysis of individual choice that illuminated the “micro” area.
他のすべての経済現象が個人の人間行為から生まれるものとして説明される一方で、貨幣の供給は市場の外部に与えられたものとされ、供給は "価格水準 "と呼ばれる抽象的なものに機械的に影響を与えると考えられた。 「ミクロ」の領域を照らす個人の選択の分析は消えていた。
17 The two spheres were analyzed totally separately, and on very different foundations.
この2つの領域はまったく別々に分析され、まったく異なる基盤の上に成り立っている。
18 This book performed the mighty feat of integrating monetary with micro theory, of building monetary theory upon the individualistic foundations of general economic analysis.
「貨幣及び流通手段の理論」は、貨幣論とミクロ理論を統合し、一般経済分析の(方法論的)個人主義的基礎の上に貨幣論を構築するという偉大な偉業を成し遂げた。
19 Eugen von Böhm-Bawerk died soon after the publication of The Theory of Money and Credit, and the orthodox Böhm-Bawerkians, locked in their old paradigm, refused to accept Mises’ new breakthrough in the theory of money and business cycles. Mises therefore had to set about the arduous task of founding his own neo-Austrian, or Misesian, school of thought. He was handicapped by the fact that his post at the University of Vienna was not salaried; yet, all during the 1920s, many brilliant stu- dents flocked to his Privatseminar.
オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクは『貨幣及び流通手段の理論』の出版直後に死去したし、古いパラダイムにとらわれていた正統派のベーム=バヴェルクの一派は、貨幣と景気循環の理論におけるミーゼスの新しいブレークスルーを受け入れようとしなかった。 そのためミーゼスは、自らの新オーストリア学派、すなわちミーゼス学派を創設するという困難な仕事に取りかからなければならなかった。 彼は、ウィーン大学でのポストが無給であったというハンディを背負っていたが、1920年代を通じて、多くの優秀な学生が彼の私的ゼミナールに集まった。
(訳註:オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクは1914年に死去。カール・メンガーは1921年に死去している)
20 In the English-speaking world, acceptance of Misesian ideas was gravely hampered by the simple but significant fact that few economists read any language other than English.
英語圏では、英語以外の言語を読む経済学者がほとんどいないという単純だが重大な事実が、ミーゼスの思想の受容を大きく妨げていた。
21 Mises’ The Theory of Money and Credit was not translated into English until 1934, and the result was two decades of neglect of the Misesian insights.
ミーゼスの『貨幣及び流通手段の理論』が英語に翻訳されたのは1934年のことで、その結果、ミーゼスの洞察は20年間も顧みられることがなかった。
(訳註:訳はハロルド・E・バトソンによる。ドイツ語のUmlaufsmittelは直訳すると「流通手段」であり、英語版の本文では原文に対応して「fiduciary media」と訳されていた。 しかし、出版社が意図的に訳を「信用(クレジット,credit)」と変えてしまったため、ミーゼスが信用という用語を巡り意味が交錯するのを嫌って新語を作ったことの意味が無くなってしまった)
22 Cash balance analysis was developed in the late 1920s in England by Sir Dennis H. Robertson, but his approach was holistic and aggregative, and not built out of individual action.
キャッシュバランス分析は、1920年代後半にイギリスでサー・デニス・H・ロバートソンによって開発されたが、彼のアプローチは全体的かつ集計的であり、個々の人間行為から構築されるものではなかった。
(訳註:サー・デニス・ロバートソン(Sir Dennis Holme Robertson,1890〜1963)はイギリスの経済学者。ケンブリッジ学派経済学)
23 The purchasing power parity theory came to England and the United States only through the flawed and diluted form propounded by the Swedish economist Gustav Cassel.
スウェーデンの経済学者グスタフ・カッセルが提唱した購買力平価説については、欠陥のある希薄な状態となって、イギリスとアメリカにもたらされた。
24 And neglect of the Cuhel-Mises theory of ordinal marginal utility allowed Western economists, led by Hicks and Allen in the mid-1930s, to throw out marginal utility altogether in favor of the fallacious “indifference curve” approach, now familiar in micro text-books, Mises’ integration of micro and macro theory, his developed the- ory of money and the regression theorem, as well as his sophisticated analysis of inflation, were all totally neglected by later economists.
そして、序列限界効用に関するチュヘル=ミーゼス理論を無視したために、1930年代半ばのヒックスとアレンを筆頭とする西洋の経済学者たちは、限界効用を完全に捨て去り、今ではミクロの教科書でおなじみの誤った「無差別曲線」アプローチを採用した。ミーゼスのミクロ理論とマクロ理論の統合、彼の発展させた貨幣理論、回帰定理、そして彼の洗練されたインフレ分析は、すべて後の経済学者によって完全に無視された。
(訳註:回帰定理または遡及定理(The Regression Theorem)とは、ミーゼスが提唱した、貨幣の価値はその商品の価値にまで遡ることができるという定理。この定理は、ある時点において、商品(銀、金など)としての価値に基づく、間主観的な交換価値を持つ財が存在し、その財が与えられた状況において、交換において等価物として他の財の特定数量を調達する能力を持つに至ったとする(つまり、貨幣が購買力を得るに至ったということ)。これは、自然から付与されたものではない個々の財を、感情に基づいて評価するという人間の行為のプロセスに由来し、それが貨幣として徐々に採用されるようになったというものである。ちなみにこの文に出てくる間主観性とは、哲学用語であり、それぞれ異なる複数の人間の主観によって合意されている、という意味)
26 The idea of integrating macro theory on micro foundations is further away from current economic practice than ever before.
ミクロの基礎の上にマクロの理論を統合するという考え方は、現在の経済実務から以前にも増して遠ざかっている。
27 Only Mises’ business cycle theory penetrated the English-speaking world, and this feat was accomplished by personal rather than literary means.
英語圏に浸透したのはミーゼスの景気循環理論だけであり、この偉業は文学的手段ではなく、個人的手段によって達成された。
28 Mises’ outstanding follower, Friedrich A. von Hayek, immigrated to London in 1931 to assume a teaching post at the London School of Economics.
ミーゼスの優れた信奉者であったフリードリヒ・A・フォン・ハイエクは、1931年にロンドンに移住し、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの教職に就いた。
29 Hayek, who had concentrated on developing Mises’ insights into a systematic business cycle theory, managed quickly to convert the best of the younger generation of English economists, and one of the brightest of the group, Lionel Robbins, was responsible for the English translation of The Theory of Money and Credit.
ハイエクは、ミーゼスの洞察を体系的な景気循環理論に発展させることに専念していたが、イギリスの若い世代の優秀な経済学者たちをすぐに改宗させることに成功し、その中で最も優秀なグループの一人であるライオネル・ロビンスが『貨幣及び流通手段の理論』の英訳を担当した。
30 For a few glorious years in the early 1930s, such youthful luminaries of English economics as Robbins, Nicholas Kaldor, John R. Hicks, Abba P. Lerner, and Frederic Benham fell under the strong influence of Hayek.
ロビンス、ニコラス・カルドー、ジョン・R・ヒックス、アバ・P・ラーナー、フレデリック・ベンハムといったイギリス経済学の若き名士たちは、1930年代初頭の輝かしい数年間、ハイエクの強い影響下にあった。
31 In the meanwhile, Austrian followers of Mises’ business cycle theory—notably Fritz Machlup and Gottfried von Haberler—began to be translated or published in the United States. Also in the United States, young Alvin H. Hansen was becoming the leading proponent of the Mises-Hayek cycle theory.
その一方で、ミーゼスの景気循環理論のオーストリアの信奉者、特にフリッツ・マハループやゴットフリート・フォン・ハーバラーがアメリカで翻訳出版され始めた。 またアメリカでは、若きアルビン・H・ハンセンが、ミーゼス=ハイエク景気循環理論の主要な提唱者となりつつあった。
32 Mises’ business cycle theory was being adopted precisely as a cogent explanation of the Great Depression, a depression which Mises anticipated in the late 1920s.
ミーゼスの景気循環論は、まさにミーゼスが1920年代後半に予期していた恐慌である、世界恐慌の説得力のある説明として採用されていた。
33 But just as it was being spread through England and the United States, the Keynesian revolution swept the economic world, converting even those who knew better.
しかし、ケインズ革命がイギリスやアメリカに広まると同時に、ケインズ革命は経済界を席巻し、知識のある人々でさえも転向させた。
34 The conversion process won, not by patiently rebutting Misesian or other views, but simply by ignoring them, and leading the economic world into old and unsound inflationist views dressed up in superficially impressive new jargon.
その転換のプロセスは、ミーゼシアンやその他の見解に根気よく反論することではなく、それらを単に無視し、表面的には印象的な新しい専門用語で着飾った、古くて不健全なインフレ主義的見解へと経済界を導くことによって勝利したのである。
35 By the end of the 1930s, only Hayek, and none of the other students of himself or Mises, had remained true to the Misesian view of business cycles.
1930年代の終わりには、ハイエク自身やミーゼスの弟子たちだけが、ミーゼスの景気循環観に忠実であり続けた。
36 Mises’ The Theory of Money and Credit, in its English version, barely had time to be read before the Keynesian revolution of 1936 rendered pre-Keynesian thought, particularly on business cycles, psychologically inaccessible to the next generation of economists.
ミーゼスの『貨幣及び流通手段の理論』(1934年の英語初版)は、1936年のケインズ革命によって、ケインズ以前の思想、特に景気循環に関する思想が、次世代の経済学者にとって心理的に近づきがたいものとなる前に、かろうじて読まれる時間があった。
37 Mises added part four to the 1953 English-language edition of The Theory of Money and Credit.
ミーゼスは1953年の『貨幣及び流通手段の理論』英語第2版に第4部を追加した。
38 But Keynesian economics was riding high, and the world of economics was scarcely ready to resume attention to the Misesian insights. Now, however, and particularly since his death in 1973, Misesian economics has experienced a remarkable resurgence, especially in the United States.
しかし、ケインズ経済学は絶好調であり、経済学界がミーゼスの洞察に再び注目する準備はほとんど整っていなかった。 だが、現在、特に1973年の彼の死後、ミーゼスの経済学は、特にアメリカで目覚ましい復活を遂げている。
39 There are conferences, symposia, books, articles, and dissertations abounding in Austrian and Misesian economics.
オーストリアン及びミーゼシアン経済学(新オーストリア学派経済学)には、会議、シンポジウム、書籍、論文、学位論文があふれている。
40 With the Keynesian system in total disarray, reeling from chronic and accelerating inflation punctuated by periods of inflationary recession, economists are more receptive to Misesian cycle theory than they have been in four decades.
ケインズ体制が完全に崩壊し、慢性的なインフレと加速するインフレに見舞われ、インフレ不況に見舞われている今、経済学者たちはこの40年間で最もミーゼスの循環理論を受け入れている。
41 Let us hope that this new edition will stimulate economists to reexamine the other sparkling insights in this grievously neglected masterpiece, and that Mises’ integration of money and banking with micro theory will serve as the basis for future advances in monetary thought.
この新版が経済学者たちを刺激し、この惜しくも無視されてきた傑作にある他のきらめくような洞察を再検討させ、ミーゼスの貨幣と銀行とミクロ理論の統合が、将来の貨幣思想の進歩の基礎となることを期待したい。
NEW YORK 1981
ニューヨークにて、1981年