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ミーゼス『貨幣及び流通手段の理論』 第4部 貨幣の再建 第21章第2節
第21章 健全貨幣の原則
2 金本位制の長所及びその欠点
金本位制の優れた点は、通貨単位の購買力の決定が政府や政党の政策から独立していることにある。また、金本位制は、支配者が代表議会の財政的および予算的特権を回避することを防ぐ役割を果たす。政府が議会の承認を得ずに、法定通貨の流通量を増やして非承認の支出を賄うことができない限り、議会による財政管理は機能する。この観点から見ると、金本位制は、代表制政府のシステムを機能させるために不可欠な憲法上の保証の一部として理解される。
1850年代にカリフォルニアやオーストラリアで金の生産が大幅に増加した際、金本位制はインフレを引き起こすとして批判を受けた。当時、ミシェル・シュヴァリエ(訳注1)は著書『金の減価の予想』の中で金本位制の放棄を推奨し、ベランジェ(訳註2)も詩の中で同じテーマを扱っていた。しかし、後にこれらの批判は沈静化し、金本位制はもはやインフレを引き起こすものとして非難されることはなく、逆にデフレを引き起こすとされた。インフレを最も熱心に支持する者たちでさえ、真の意図を隠すため、単に金の供給が不十分であるために生じる収縮的な圧力を相殺したいだけだと主張するようになった。
(訳注1:ミシェル・シュヴァリエMichel Chevalier, 1806〜1879。フランスの鉱山技師、経済学者、政治家。サン=シモン派に属し、その機関紙である『グローブ』の編集長として活躍した)
(訳注2:ピエール=ジャン・ド・ベランジェPierre-Jean de Béranger, 1780〜1857。フランスの抒情詩人、シャンソン作者。社会的風刺に溢れた詩風を有し、そのために投獄されたこともある。代表作に『イヴトーの王様』などがある)
しかし、ここ数世代にわたり、すべての物価と賃金率が上昇する傾向が続いているのは明らかである。貨幣価格と貨幣賃金が下落する一般的な傾向について論じることは無視してもよい(原註3)。というのも、過去100年間に経験したのはその逆であり、貨幣単位の購買力が徐々に低下していく傾向であったからだ。これは、信用拡大によって意図的に引き起こされた景気の崩壊後の一時的な中断を除いて、継続的に見られた現象である。金は物資に対して高くなったのではなく、むしろ安くなったのである。金本位制に反対する者たちが求めているのは、物価決定の既存の傾向を逆転させることではなく、既に進行している物価と賃金の上昇傾向をさらに大幅に加速させることである。彼らは単純に、貨幣単位の購買力をより速いペースで低下させたいのだ。
(原註3:この問題については、『ヒューマン・アクション』463〜468ページを参照)
このような急進的なインフレ主義の政策は、もちろん非常に人気がある。しかし、その人気の大部分は、その影響を誤解していることに起因している。実際に人々が求めているのは、自分たちが販売している商品やサービスの価格が上がり、同時に自分たちが購入している商品やサービスの価格は変わらないことだ。たとえば、ジャガイモの生産者はジャガイモの価格が上がることを望んでおり、他の価格が上がることは望んでいない。他の価格がジャガイモの価格よりも早く、または大きく上昇すれば、彼は損をする。政治家が集会で「政府は価格が上昇する政策を採用すべきだ」と演説すれば、聴衆は拍手を送るかもしれない。しかし、聴衆のそれぞれが頭の中で思い描いている価格上昇は異なっている。
古くから、インフレは貧しいが誠実な債務者の負担を軽減し、裕福で冷酷な債権者に犠牲を強いる手段として推奨されてきた。しかし、資本主義社会において典型的な債務者は、貧者ではなく、不動産、企業、普通株式を所有する裕福な人々であり、彼らは銀行や貯蓄銀行、保険会社、債券保有者から借り入れをしている。一方で、典型的な債権者は裕福な人々ではなく、債券や貯蓄口座を所有したり、保険に加入している比較的慎ましい暮らしをしている人々である。一般市民が反債権者的な措置を支持する場合、それは自分自身が債権者であるという事実を無視しているからである。「金持ちが容易な通貨政策の犠牲者である」という考えは、過去からの時代錯誤的な残滓である。
素朴な心にとって、法定紙幣の発行には何か奇跡的なものがある。政府が魔法の言葉を唱えるだけで、何もないところから、人々が欲しいと思うどんな商品とも交換できるものが作り出される。政府の財務省の術と比べると、魔術師や魔女、奇術師の技術はどれほど色あせて見えることだろう!教授たちは私たちに、「政府は必要なだけのお金を印刷して得ることができる」と教えている(原註4)。ニューヨーク連邦準備銀行の理事長(訳注3)は「歳入のための税金は時代遅れだ」と宣言したことがある(原註5)。何という素晴らしさだろう!そして、すべての支出を税収でまかなうことで政府に予算の均衡を求める、時代遅れの経済正統主義を頑なに支持する者たちは、何と悪意に満ち、人類を憎む者たちだろうか!
(原註4: アバ・ラーナー『統制の経済学』(ニューヨーク、1944年)、307〜308ページを参照)
(原註5: ビアズリー・ラムル「歳入のための税金は時代遅れである」『アメリカン・アフェアーズ』第8巻(1946年):35〜36ページを参照)
(訳注3:ビアズリー・ラムルBeardsley Ruml, 1894〜1960。アメリカの統計学者、実業家。ニューヨーク連邦準備銀行理事(1937〜1947)、ニューヨーク連邦準備銀行理事会議長(1941〜1946)。ラムルは1945年にアメリカ法曹協会(American Bar Association)にて行われた演説で、金本位制の終焉以降、「歳入のための税金は時代遅れである」と主張した。このラムルの考え方は、ラーナーの機能的財政論やチャータリズム(表券主義)の先駆けとみなされている。また、ラムルの発言は、現代貨幣理論の原型をなすものである)
これらの熱狂的支持者たちは、インフレの効果が大衆の無知に依存していることを見逃している。多くの人々が貨幣単位の購買力に対する影響に気付き始めると、インフレはその効果を失う。通常、すなわち政府が通貨基準をいじらない時期には、人々は通貨の問題にほとんど関心を持たない。彼らは単純に、通貨単位の購買力が「安定している」と思い込んでいる。人々は各種商品の価格変動には注意を払っているが、貨幣とすべての商品やサービスとの間の交換比率も変動するという事実には気付いていない。インフレの必然的な結果が現れ、物価が急騰すると、人々は商品が高くなっていると考え、貨幣が安くなっているとは気づかない。インフレの初期段階では、わずかな人々だけが事態を察知し、その洞察に基づいてビジネスを展開し、意図的にインフレによる利益を得ようとする。大多数の人々は事態を正しく解釈する力に欠け、非インフレ時代に身に付けた習慣を維持し続ける。そして、市場の動揺の真の原因を素早く理解した人々を「暴利を貪る者」として憤慨し、自分たちの困窮を彼らに押し付ける。このような大衆の無知こそが、インフレ政策の不可欠な基盤である。インフレが機能するのは、主婦が「新しいフライパンが必要だけど、今は物価が高すぎるから、もう少し下がるまで待とう」と考えている間である。しかし、インフレが続くことや、それが物価の上昇を引き起こしていること、そして物価が無限に高騰するだろうという事実に人々が気付いた瞬間に、インフレは急に終わる。危機的な段階は、主婦が「今日はフライパンが必要じゃないけど、1年か2年後には必要になるかも。けど、今買っておかないと後でずっと高くなるだろう」と考え始めたときに始まる。そして、インフレの破滅的な結末が近づく。その最終段階では、主婦は「もう一つテーブルは必要ないし、これからも必要ないだろう。だけど、政府が『お金』と呼んでいるこの紙切れを持ち続けるよりは、テーブルを買った方が賢い」と考えるようになるのだ。
政府の財政システムを市民の大多数を意図的に欺くことに基づくべきかどうかという問題はここでは脇に置いておくとしても、そのような欺瞞的な政策が自己破壊的であることを強調することは重要である。ここで、リンカーンの有名な言葉が当てはまる。「全ての人を常に欺くことはできない」ということだ。最終的に、大衆は支配者の策略を理解するようになる。そして、その巧妙に仕組まれたインフレ政策は崩壊する。政府に迎合する経済学者たちが何を言おうとも、インフレ主義は健全貨幣政策に代わるものとして考えられるべき通貨政策ではない。インフレ政策はせいぜい一時的な緊急策でしかない。インフレ政策の主な問題は、大衆が支配者の策略を見抜く前にどのようにしてそれを止めるかという点にある。一般大衆がその本質的な特徴を認識しない限りしか機能しない通貨システムを公然と推奨するのは、かなりの無邪気さを示すものである。
指数による方式は、貨幣単位の購買力における変化を「測定」する非常に粗雑で不完全な手段である。社会的事象の分野には、大きさの間に恒常的な関係が存在しないため、測定は不可能であり、経済学が定量的になることはありえない(原註6)。しかし、この指数による方式はその不完全さにもかかわらず、インフレーションの進行過程において、人々をインフレーションに対して意識的にさせる役割を果たす。いったん指数の使用が一般的になると、政府はインフレーションの進行速度を遅らせることを余儀なくされ、インフレーション政策が一時的な緊急事態に対応するための暫定的な手段に過ぎず、まもなく中止されるだろうと人々に信じさせる必要が生じる。政府の経済学者が依然としてインフレーションの持続的な金融管理手段としての優位性を称賛している一方で、政府はその適用において慎重を期さざるを得なくなるのである。
(原註6:本書の第11章および『ヒューマン・アクション』の55〜57ページ、347〜349ページも参照されたい)
意図的なインフレーション政策を不正直と呼ぶことは許される。なぜなら、その適用によって目指される効果は、政府がその政策の結果について大多数の人々を欺くことに成功した場合にのみ達成されるからである。介入主義的政策の擁護者の多くは、このような欺瞞に対して大きく良心の呵責を感じることはない。彼らにとって、政府が行うことは決して間違っているとは見なされない。しかし、彼らの高尚な道徳的無関心は、インフレーションに反対する経済学者の主張に対して反論を見出せない。経済学者の目には、インフレーションが道徳的に非難されるべきだという点が主な問題ではなく、むしろそれが大きな抑制を伴って適用されない限り、しかもその場合でも限られた期間しか効果を発揮しないという点にこそ問題がある。したがって、インフレーションを金本位制のような恒久的な基準に代わる手段として真剣に考えることはできないのである。
インフレーション擁護派の宣伝は、今日では金本位制が崩壊したという主張を強調しており、金本位制が再び採用されることはないだろうと述べている。国々はもはや、金本位制のルールに従うことや、その維持に伴うすべてのコストを負担することを望んでいない、というのである。
まず最初に、金本位制が崩壊したのではなく、政府がインフレーションへの道を開くためにそれを廃止したという事実を忘れてはならない。金本位制を破壊するためには、抑圧と強制のすべての厳しい装置―警察官、税関警備員、刑事裁判所、刑務所、そしていくつかの国では死刑執行人までもが―動員される必要があった。厳粛な約束は破られ、遡及的な法律が制定され、憲法や権利章典の規定が公然と無視された。そして、多くの従順な作家たちは、政府の行為を称賛し、不換紙幣の時代の到来を祝福したのである。
しかし、このいわゆる新しい通貨政策において最も注目すべき点は、その完全な失敗である。確かに、国内市場において健全な通貨に代わり不換紙幣を導入し、一部の個人やグループの物質的利益を他の者の犠牲のもとに優遇した。また、国際的な分業体制の崩壊にも大きく寄与した。しかし、国際的または世界標準としての金の地位を排除することには成功しなかった。どの新聞の金融欄を見ても、いまだに金が世界の通貨であり、各国の印刷所で作られる様々な紙幣ではないことがすぐにわかる。この紙切れは、1オンスの金に対する価格が安定しているほど高く評価される。今日、国内金本位制への回帰の可能性をほのめかす者は、狂人扱いされてしまう。この恐怖政治はしばらく続くかもしれない。しかし、世界標準としての金の地位は揺るぎないものである。「金本位制から離れる」という政策は、各国の金融当局に対し、貨幣単位の金に対する価格を考慮する必要性を取り除くものではなかった。
金本位制のゲームのルールについて語る著者たちが何を念頭に置いているのかは明確ではない。もちろん、金の売買や保有が違法であり、多くの裁判官や警官、密告者がその法律を厳しく執行している場合、金本位制が満足に機能しないことは明らかである。しかし、金本位制はゲームではなく、市場現象であり、それ自体が社会的制度である。その維持には、特定のルールの遵守が必要なわけではなく、政府が意図的にこれを妨害しないことが求められるだけである。この条件を「ゲームのルール」と呼ぶのは、ポールの命が「ポールの命ゲーム」のルールに従わなければならないという主張と同様に不合理である。ポールが誰かに刺されて死ぬなら、当然、命を保つことはできないのだから。
金本位制の敵がその主な欠点として軽蔑するものは、金本位制の擁護者の目には主な美徳と映るものであり、それは信用拡張政策との非互換性である。反金本位制の著者や政治家によるあらゆる主張の核心には、拡張主義の誤謬があるのだ。
拡張主義の理論は、利子、すなわち現在の財に対する将来の財の割引が、人間の評価における本源的なカテゴリーであり、あらゆる人間の行動において存在し、いかなる社会制度にも依存しないものであることを理解していない。拡張主義者たちは、1年後や100年後に得られるリンゴに対して、今手に入るリンゴと同じ価値を置く人間は、かつて存在したこともなければ、今後存在することもないという事実を理解していない。彼らの見解では、利子は生産の拡大、ひいては人間の福祉への障害であり、それは金貸しの利己的な利益を保護するために不当な制度が作り出したものであるとされる。彼らは、利子は借り入れのために人々が支払わなければならない価格であり、その高さは貨幣供給量の大きさに依存すると主張する。もし法律が新たな貨幣の創造を人工的に制限しなければ、利率は下がり、最終的にはゼロにまでなるだろうというのだ。「縮小主義」の圧力は消え、資本の不足も解消され、金本位制の「制限主義」が妨げている多くの事業プロジェクトを遂行することが可能になると主張する。すべての人々を繁栄させるために必要なのは、「金本位制ゲームのルール」を無視することであり、これこそが我々の経済的苦難の主な原因であるというのが彼らの見解である。
これらの不合理な理論は、国家主義的なスローガンと結びついたとき、無知な政治家や扇動家に大きな影響を与えた。経済的孤立主義者は、「低金利政策の利点を十分に享受できないのは、我が国が金本位制に従っているためだ」と主張する。中央銀行は、国際的な金融市場の状況や外国の中央銀行の割引率に対応した水準で割引率を維持することを余儀なくされる。そうでなければ、「投機家」が短期の海外投資のために資金を我が国から引き出し、その結果、金の流出が中央銀行の金準備高を法定比率以下に減少させてしまうからである。もし中央銀行が金で銀行券を償還する義務を負っていなければ、このような金の引き出しは発生せず、世界的に支配される金の独占に基づく国際金融市場の状況に金利を調整する必要もなくなる、というのである。
この議論における最も驚くべき事実は、国際的な金融および資本市場の運営が外国資金の流入を意味し、その結果として金利低下の傾向が現れる債務国でこそ、この議論が提起されたことである。この議論は、1870年代から80年代にかけてドイツで、さらにオーストリアで非常に人気があったが、その当時、ドイツやオーストリアに多額の融資を行っていたイギリスやオランダでは、ほとんど真剣に取り上げられることはなかった。イギリスでは、第一次世界大戦後、同国が世界の金融センターとしての地位を失った時期になって初めてこの議論が展開された。
もちろん、この議論自体は成り立たない。信用拡張の試みが必然的に失敗する理由は、融資業務の国際的な絡み合いによるものではない。それは、実在しない資本財の代わりに不換紙幣や銀行の循環信用を用いることが不可能であるという事実に起因する。信用拡張は、最初の段階では景気を好転させることができるが、そのような景気拡大は必然的に不況、すなわち恐慌へと終息する。経済危機が周期的に再発する原因は、政府やその監督下にある銀行が信用を拡張し、低金利で景気を良くしようと繰り返し試みることにあるのである(原註7)。
(原註7:本書の第3部は、景気循環理論、つまり貨幣理論または循環信用理論と呼ばれる学説、時にはオーストリア学派理論とも称される学説の解説に完全に割かれている。詳細は、『ヒューマン・アクション』の535〜583ページおよび787〜794ページも参照されたい)