見出し画像

安楽死について

こんばんは。
久々に投稿します。

今回は安楽死制度について今の自分なりに考えてみました。

個人で見れば僕は安楽死というものには肯定的でした。
個人の権利の侵害、治療の難しい病気にかかっている等…
希死念慮を抱える自分にとって単に生き続けなければならないというのも暴力なのではないかという考えでした。

しかし、今は少し考え方が変わり自分の中にある条件をクリアした場合によります。この条件をクリアできない限り安易に肯定はできないという立場です。
ここでは僕が思っている安楽死の弊害的な側面を提示したいと思います。

①責任の所在

安楽死は仮に制度化した場合、必ず誰かの力を借りなければならない。
故にこの選択はすべて自分の責任ですという簡単な問題にはならないと思う。
実際に立ち会う医療従事者はもちろん、制度に合致しているかの法律的な審査機関、不正がないかの監視機関、心理的なケアをする必要性…
例え最後の選択的に「自分の意思を示すためボタンは自分で押してください」としてもそこまでのお膳立ては、他者が用意することになるだろう。

また、手続き上のミスや殺人への利用、利用者がやっぱりやめたと判断した場合のケアなど…リスクや問題もある。
仮に手違いで人を殺めてしまった場合や家族は反対したけど本人の意思が尊重され実行した場合など…
医療従事者、また審査する方の心理的な負担は大きい。
この取り返しのつかない責任の所在は誰が負うことになるのだろうか。

今も自殺される方もいますが、自己の死によって他人へ負担を背負わせる側面は安楽死制度では解消されないと思う。
また、そこに対する法整備化は膨大なものがある。今の政府にそれを託すに信用たりえるのかということも強く思います。


②社会的な偏見の醸成

安楽死が制度化された場合、新たな偏見と死へのカジュアル化が生まれることになると思う。
身体や言葉がうまく動かせず植物状態の人や身寄りのない方、資本のない低所得者など偏見にさらされることになるのは想像に難くない。
この人は幸せそうに見えないだから安楽死すればという外的な尺度で無意識に自己と他人を裁くものになる危険性がある。
他者「あいつ邪魔だな、いなくならないかな」→私「もう死んだほうがいいんだ死のう」→安楽死というプロセスがあれば、言葉と思いで人を殺すことが加速するようになると思う。
安楽死に従事する人への偏見も生まれることだろう。
私は、この国の社会がそんなことは起こらない、許さないとそこまで倫理が成熟しているものとは到底感じない。
むしろこれらが当たり前の価値観、慣習として醸成されていくことによって、評価軸や自身のアイデンティティにも組み込まれ、死がカジュアル化されていくものになると思う。
その時にまだ生まれていない未来の子供たちに対してメリットがあるものなのか。
少なくても私の妹やその子供たちに対してその業を背負わせたくない。

③経済的なコストの側面

安楽死が制度化した場合、新たなコストが生まれることにもなる。
安楽死を実際に執り行う医療機関、認可する審査機関、適切な運用に対する監視機関の設立、運用に伴う税の負担。

また人口が減れば、食品や日用品をはじめモノの購買力が下がり、金銭を介した経済的な循環は鈍化する。それに伴う企業の業績は下がることになるだろう。
まず、購買をする人が存在することが金の循環を生む。それにより経済が生まれるという前提がある。安楽死を制度化した場合、それを崩す側面もあるだろう。
もう働くことはない、働けない人を排除しても社会で考えれば購買力が下がるため、新たな経済的なシステムを構築しない限り徐々に停滞をしていくと思う。


安楽死に賛成の方は今現在、何らかの理由で苦しかったり、どうしようもない気持ちを抱えてたり、またそういうことを何とかしたいと考えられる思慮深い、優しい人が多い気がします。
決して自分の都合だけで安楽死を望んでいる人はいないと。

僕個人も安楽死はあってほしい。
しかし、死に対して法律的に他者に殺人をさせること、偏見の醸成によりさらに生きづらくなる社会、経済的停滞など…それも暴力なのではないかと少し戸惑いがあります。
自分の苦しさを他者へ転嫁する理由付けのための制度ではないと思う。
この3つの問題を解決するアンチテーゼ的な意見や考えが欲しいのかもしれません。
すでに実施している各国の法整備はどうなのか、それに伴う様々な統計的なデータ、国民性…検証できる具体的な部分はたくさんあると思う。
そういうことを僕は知りたいし見聞きしたい。

いずれにせよあるべきもの、ないほうがいいと断定するのではなく、考えることを続けていくのが必要なことだとは思います。

最後までお読み頂きましてありがとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?