どんなにダメな自分でも、この人たちは一緒に生きてくれる。

「元気そうでよかった」

この言葉を、何度かけてもらっただろう。


何も言わずに、コーヒー片手に隣に座ってくれた。喫茶店でなんでもない話に宿るやわらかい眼差しは伝わったし、笑わせようと、笑ってくれたんだと気づいた。

「あのね、」そうわたしが口を開くのを、待ってくれていたんだと気づいたときは、叶わないと思った。


愛されてるじゃん。ねぇ、ちゃんと愛されてる自分を見てあげてよ


きっと、何かを伝えることよりも何も言わない優しさの方が、ずっと難しく、ずっと気づきにくく、ずっと深い。

きっと、何かを教えるよりも本人が自分で気づけるように種をまく優しさの方が、ずっと繊細で、ずっと透明で、ずっと努力家だ。


ダメな自分が、恥ずかしかった。みんなはきっと、「若いのにすごいね」とか「フリーランスなのすごいね」とか「行動力あって、目標もあってすごいね」とか、そういう“貝津美里”を好きになったんだろうし、だからこそ、そういう自分でいなきゃダメなのかもなと思っていた。


「頑張っている」から、みんなが周りにいてくれるのだと思っていたし、「悪いところを知らない」から、側にいてくれてるんだと思ってた。


愛されてるのに、愛して欲しいとねだるから。


でも、たぶん、どうやら違うようだ。

できないことを、ポツリポツリと話せば、何も言わずに聞いてくれた。それは乗り越えなきゃいけないことだね、と笑い飛ばし、でも難しいよねと、照れたようにはにかんだ。どうしようかと一緒に頭を悩ませ、でもきっと大丈夫だよねと手を振って別れた。

手のひらにそっと置かれた大切な人たちからの言葉が、リレーのように心の中で繋がる。


「そのうち、元気になるよ」

さりげなく送られた言葉に、冷えて凝り固まった自意識がふわり、溶けていく。そこから自分の声になる感情は、するすると、素直に。風に流させる雲みたいに呑気に世界を漂った。無防備で、無知で、やわらかいまま。そのままでいいと、自分と世界を優しくした。


空には、笑いかけるピンクと、消えそうな黄色。それから、遠慮気味の蒼が。


ダメな自分しか、話さなかった。格好悪くて、下手くそで、意地っ張りで、泣き出しそうな自分しか、見せなかったのに。バイバイと改札で手を振る人たちはみんな、楽しそうだった。会えてよかったと、心配したよと。心からそう思ってくれていたんだなと、ちゃんと感じられた。


わたしのことが、好きな人たちだ。

そしてわたしも、この人のことが本当に好きだ。心から溢れた気持ちは、温かく身体に染み込む。


悲しいことがあったら。不安だったら。もう、バレてるから。ちゃんと言いなよ。

ねぇ。たぶんさ、どこが好きとか無いんだよ。そもそも、ダメだとか良いとか、そんなこと関係ないよ。どんな仕事をしていようが、どんな恋愛していようが、どんなすごいことを成し遂げようが。格好悪かろうが、失敗しようが。なに見栄張ったんだよ。そんなの別に、何だっていいよ。興味ない。

どんなことをしてても良い。何を選んでもいい。幸せな匂いのするきみの笑顔が、わたしをとっても生きやすくするよ。


どんなにダメな自分でも、この人たちは一緒に生きてくれる。

丁寧に関係を紡いできた時間が、愛おしく思えた。

困ったことがあったら、今度はわたしが駆けつけるよ。だってわたしの言葉が、沈黙が、想いが、わたしを好きな人たちの元気になるって。知っているから。

それが「胸を張ってまっすぐに愛を受けとる」ことだと。今はそう、思うから。


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