宮柊二晩年の歌境(三沢左右)
宮柊二には、十二冊の歌集がある。晩年の三歌集(第十歌集『緑金の森』、第十一歌集『純黄』、第十二歌集『白秋陶像』)は、病身の柊二に代わり、宮英子夫人の編集によって出版された。
本論では、晩年の三歌集を軸に、柊二の歌風の変遷を追いつつ、柊二の至った歌境について考察したい。
・緊密さの喪失
第十一歌集『純黄』巻頭の一首。青年~壮年期の作品に見られる緊密さ、粘り気が影を潜めている。歌人宮柊二を特徴づける「山鳩」を題材としながらも、上の句の描写は接続助詞「ど」で切断され、下の句で「悲し」という実感に寄り添おうとするや、「勿れ」と突き放される。どこか着地点を見失って漂うような趣だ。作者の境涯の率直な表明ではあろうが、景と境涯との不即不離な緊張関係は薄い。
それは、同じく山鳩や、鳥の鳴き声を題材にした先行作品と比べればわかりやすいだろう。
第一歌集からの一首目、現実の「斑鳩(やまばと)」と心中の「わが殺(と)りしもの」とが渾然として一首を緊密なものにしている。現実と心中を結びつけるのは、表面的には「うち混り」であろうが、真の立役者は「地にきこゆ」である。「地」という語の持つ、自身の内面や生と死のあわいに深く潜ってゆくようなイメージと、眼前の実景とが重ね合わされて、一首に重層性が生まれた。
二首目、『山西省』を特徴づける迫真性、ドキュメンタリー性が遺憾なく発揮された一首。「静もる時」の静寂を啼き上げる、人事に関わりのない「庭鳥」のリアリティが鮮烈で、結句の「おそろしく寂し」という内心の表明が、戦場を経験したことのない読者にも実感をもって響く。
三~五首目は第五歌集から。いずれも、山鳩や竹群に作者自身の境涯が投影される。語の斡旋や表記、韻律への細やかな配慮によって、景と心の結びつきは緊密だ。例えば三首目「山鳩の来啼く竹群」という凝縮された景の描写から一転、三句目からはゆったりとした平仮名表記になる。声を持つ山鳩ではなく、「しづまりはて」た竹群に重ねられる心のありようも静謐で、奥深い。
四首目、先ほどとは逆に、心を上の句に置く。やはり平仮名表記が効果的で、「山鳩啼けり」という結句まで丁寧に構成された、メリハリの効いた一首だ。
五首目では、「梅雨の靄」によって竹叢の景を立ち上がらせつつ、山鳩の啼き声が「娑婆苦耐へよ」という硬質な感傷に重ねられる。一見、観念的な言葉のようだが、「娑婆苦耐へよ」という響きは面白い。いわゆる〈聞きなし〉にも似た音感の工夫が冴える。
繰り返しになるが、青年~壮年期の柊二の作品には、景と心との懸隔や、時間の懸隔を一首の中で力強く引き寄せ、結びつける緊密さがあるのだ。
「山鳩」などが登場しない作品からも、代表的なものを二首挙げる。
一首目、二つの時間が、心の内で結びつく。目の前に現実の花が存在しないことで、逆説的に、より鮮やかに花の色彩を映し出した。二首目、『山西省』に続く第三歌集『小紺珠』巻頭の一首。「て」という接続助詞で時間の流れを素直に詠い上げる一首だが、ゆったりとした時間の中に「たたかひを終りたる身」という自身を置くことで、「『山西省』の柊二」という人物象を読者に想起させつつ、祈りのような戦後の感慨を歌集に込めようとする一首だと言えよう。
本論の主題からは外れるが、私が宮柊二の作品に初めて触れたときに最も心惹かれたのも、こうした力強さ、緊密さから来る重みであった。
次に、中期までの柊二の作品を特徴づけていた厚み、緊密さが、晩年にどのように変遷したかを見てみたい。
・淡泊さの魅力
本論の冒頭に引用した「山鳩は朝より~」の一首には、『山西省』の迫真性や、景と心との結びつきの緊密さが感じられない。しかし、そのために作品としての魅力が失われているかというと、私はそうは思わない。例えば結句の素朴な命令形などには独語の趣があり、純粋な感傷が読者に手渡されるような感触がある。『鑑賞・現代短歌五 宮柊二』で高野公彦氏はこの歌を評して「自分の境涯を山鳩の声に投影したような、淡い悲しみの漂う作品である。歌の簡明な姿がいい。」と述べる。「淡い悲しみの漂う作品」「簡明な姿がいい」という鑑賞に深く同意する。
引き続き、晩年の柊二の作品が湛える魅力は何かを考察したい。
結論をひとことで言えば、「淡泊さ」の魅力だ。景に深く自身を没入させる緊密さや粘り強さは、晩年の三歌集ではあまり前面に出てこない。さらに言えば、内的な必然から詠み上げられる歌自体も、数が減っているように思われる。第十歌集『緑金の森』巻頭が「春は、また春のあけぼの」と題された七首連作で、七首全てが、「春はあけぼの」または「春のあけぼの」という結句で終わるという、題詠的な趣向なのは象徴的だ。二首を引用する。
ここには、内的な必然から言葉を紡ぐというよりは、題詠という形で外的な言葉を契機にして、身辺の景を見まわし、自身の内面を探る、という作歌姿勢の転換が垣間見える。
おそらくそれは、心身の衰えによる面が大きいだろう。思うように旅行にも行けない中では新しいものとの出会いが減り、また右手のリウマチの悪化によって執筆や作歌活動も往時のようにままならなくなった。しかしもちろん、柊二の歌から「作者自身」が失われることはない。自身の生をいかに確然と詠み上げるかに人生を賭した歌人が宮柊二だ。自然な結果として、この時期からの柊二には自身を俯瞰するような作品が増えてくる。その視点は、自然詠や写生における清潔な距離感や、自身のありようを苦笑するようなユーモアにつながってゆく。
『緑金の森』から四首を引く。一首目、時間と視点をゆるやかに動かす一首だが、語句に無理や無駄がなく、すっきりとした実感を湛える。
二、三首目は妻を詠む。二首目の率直な妻への思いと、また自身の身体に対する端的な「あへなし」という嘆きが、どこか調子のいい韻律で詠み上げられ、悲壮感は薄められる。
三首目はさらに軽やかで明るい。「バタングウ大姉」のとぼけたおかしみの魅力は言うまでもないが、「夜も寝ねず」という妻の姿と、率直に過ぎるようにも感じられる「感謝す」の表明によって、交感の深さが感じられる一首となった。これらに限らず、『緑金の森』には、他者との交流を平明な言葉で詠んだ作品に佳作が多い。
四首目は「輪ごむ」と題された六首連作中の一首。身辺の細部への注目が、対象と同時に作者自身の心境をくっきりと描き出す連作だ。この歌も、あまりに身近な対象物への着目と感慨に驚かされるが、それだけに生活に根差した実感は強い。先程の妻への歌群と同様、柊二自身の姿や心がありありと浮かびあがる。自身を俯瞰する詠みぶりと小さな題材とが響き合ったところに、どこかユーモアを湛えた魅力的な軽みが生まれるのだ。
続いて『純黄』から。最初の二首は歌が詠めない自身を嘆く歌。こうした歌が『純黄』には随所に現れ、当時の柊二の心身の衰えと、それにともない、観察の持久力や一首にこだわり緊密に作り上げる粘り強さが自身から失われてゆくことへの忸怩たる思いとを感じさせる。それでも一首目は「置き捨ての路傍の石」の語が、一首の感慨を支えるが、二首目は「つつ」から結句への接続の不安定さなど、心身のゆらぎが歌の姿に投影されているようだ。
この時期の柊二の歌は、自然詠なども観察の粘りが弱まった印象がある。しかし、自身を客観的に把握して軽やかに詠み上げたときには、淡泊さが逆にユーモアを魅力的に輝かせる。三、四首目は、誰もが一読して頬を緩めてしまうのではないだろうか。
三首目では「汝(な)」「われ」の固さが一首の他愛なさとの間に落差を生み、結句「広島よ勝て」のダメ押しで、真面目な顔の作者の愛すべき稚気がひと息に一首を包む。
四首目、もちろん眼目は「ミヤリイノ・シュージノヴィチ」。その他の部分には語の工夫の跡は見られないが、それでいいのである。眼目となる語以外の詠みぶりを平明に、淡泊に抑え込むことでしか、このユーモアは生まれないだろう。
五首目、かつての恋人を訪問する連作「係恋」中の一首。この出来事は随筆の題材にも採られており、現在でも柊二を語る際に触れられることが多い。一連の末尾の「ならざりし恋にも似るとまだ青き梅の落実(おちみ)を園より拾ふ」には、感慨の深さゆえか、景と心の緊密さが立ち現れるが、引用歌を含む連作全体の感触は、やはり俯瞰的な簡明さが印象的な詠みぶりだ。
ところで、壮年期の作品にも晩年の淡泊さに似た感触を湛えるものがある。以下に挙げる。
この一首において「雁」の姿と「心」との間には隔たりがある。柊二はあくまで「雁」を外界のものとして把握している。高野公彦氏は『鑑賞・現代短歌五 宮柊二』でこの一首を「格調高い一首である」と評する。その「格調」は、平明な詠みぶりと同時に、作者が自身の内的な心の動きを穏やかに見つめるという、視点のありようから生まれているのではなかろうか。対象への深い思い入れを前面に出すかつての詠風とは異なる魅力が、この一首にはある。
最後の歌集からも一首を引用する。「この島」「小さけど」「わが蒐集」どの語をとっても、一首だけを取り出したときに豊かなイメージを喚起するものではない。おそらく、粘り強く推敲する精神の力や、草稿を書いては消す負担に耐える身体の力が衰えたことによるのだろう。しかし、端然として平明な一首の姿には、冗語や無理な言葉の斡旋がなく、作者の歌の地力が伺える。
内心と景とを強く結びつけたとき、一首の持つ深みは増すが、同時に息苦しさや窮屈さも生まれてしまう。柊二晩年の歌境は大らかだ。そうした歌の数々を、私は好ましく思う。
・「示寂」への思い
師である北原白秋への深い思いが一冊の基調をなす、柊二最後の歌集が『白秋陶像』だ。まずは二首を引く。一首目は巻頭の、二首目は巻末の作品。「拝する」の語からも、白秋崇敬の念の強さは、世俗の人に対するそれを超えていることが伺える。
同時に、自身に対するまなざしも、この歌集では以前と異なる様相を見せる。病状が進行した時期の、俯瞰的な詠みぶりへの変遷は前述の通りであるが、和歌・短歌の先人たちを詠った作品には、先人たちへの心寄せが伺える。自身の死期を意識した柊二が至った歌境だ。
同時代を生きた人々を送る挽歌も同歌集には収録されているが、その詠みぶりは、先人への歌とは趣が異なる。
一首目、関口由紀子氏を悼む一連から。二、三首目は片岡恒信氏を悼む一連から。いずれもコスモスの歌人であった。
これらの挽歌に通底するのは、同時代の歌人の「生」を見つめ、「死」を深く嘆く心であり、その「生」へのまなざしは、翻って「今、ここにある柊二自身の生」を照らし出す。深い嘆きを、迫真性を持って歌い上げるこうした歌群は、現実を生きる柊二の心の動きが克明に刻まれ、柊二の人間性をありありと伝える深みを湛えている。これらの挽歌が強い力を持つのはもちろんだが、ここではあえて、先人たちを詠む歌群の意義について考察したい。
一、二首目は「白秋先生」と題された一連に置かれ、どちらも白秋の思い出を詠った作品だ。一首目、「戦ひに死」ななかった柊二は、既に白秋の没した年齢を超えている。
二首目、「逝ける」「なりき」の語には、助動詞の選択に当時の柊二の立つ地点が伺える。これらの歌には、もはや「兵隊であった柊二」という実感は薄く、かつての自身を、今の自身から引き離し、白秋と同じ視点からかつての自身を眺めているような感覚だ。
自身を西行と重ね合わせる三首目。西行の「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」の一首を下敷きに、淡く死のイメージを喚起する。
四首目では、身近に接した父よりも良寛に自身を寄せる。「示寂」は高僧などの死を言う語だ。どちらの作品も、同時代の周囲の人々よりも、死して名を遺した先人たちの方に自身を同定しているようだ。もちろん、身体が不自由になり、知人たちとの交友もままならなくなったという状況が影響はしているだろう。しかしそれ以上に、視点の転換の根底には、自身の死を見つめ、死後、自身が後進の歌人たちにとっての大いなる先人となることの自覚を持つに至ったという変化があるのではないだろうか。(ちなみに、一九八一年十一月、六九歳の柊二は紫綬褒章を受章しており、歌集『純黄』中にはその喜びが詠まれた作品がある。)
そうした自覚から生まれた歌群が、柊二自身の編集による歌集として遺らなかったのは残念でもあるが、柊二を深く理解し、常に添い続けた英子夫人によって編集がなされ、またそうして世に出た歌の数々が、高野公彦氏らの鑑賞によって現代の読者に届き、新たに息づくというのは、幸いである。
・結び
本論において主に取り上げた『緑金の森』『純黄』『白秋陶像』は、『山西省』などに比べると顧みられることは多くない柊二晩年の歌集であるが、作品の変遷と、到達した歌境は、私たちに「よい歌」とは何かを考えさせるきっかけとなるだろう。そして『白秋陶像』に立ちあがる柊二の自覚に、私達は謹んで向かい合いたい。
本論は「宮柊二集4」(岩波書店)と高野公彦氏の『鑑賞・現代短歌五 宮柊二』(本阿弥書店)に多くを依った。
文・三沢左右
歌誌「コスモス」2021年12月号(宮柊二没後三十五年特集)より転載
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