動詞が開く短歌の可能性(三沢左右)

 以前「名詞萌え」という言葉が歌壇で話題になった。名詞へのこだわりを作歌や鑑賞の起点に置く姿勢のことであろう。こうした志向に対して、私は異を唱えるつもりはない。だがたとえ魅力的な名詞があっても、その名詞が指す題材に向き合っている実感が薄い短歌には、どこか空々しさが漂う。一首を支え、名詞の魅力を生かすのも、私の実感ではやはり動詞なのだ。
 では、動詞は一体どのような力を持ち、短歌の中でどのように機能しているのだろうか。

・動詞の動き・動詞の身振り
 動詞はその名の通り、動きや身振りを表現する品詞である。多彩な動詞を眺めてみると、動きの表象が残っているものが多いことに気づく。たらりと「たれる」、ぱたぱた「はためく」、など、枚挙にいとまがない。また、そうした痕跡が見えにくい語でも、動詞にはやはり読者の身体感覚に訴える力がある。そして読者は、動詞に残る動きや身振りに自身の身体感覚を寄り添わせることで、短歌の中の景や物、さらには作者の感情に当面しているような感覚を得る。


二人子を抱きてなほも剰る腕汝れらが父のかなしみも容る  河野裕子『桜森』
君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る


 歌集中で連続する二首である。河野は、歌の中でダイナミックに身体を躍動させる。さらにその身振りが感情の動きと深く結びついているため、読者は作品世界に否応なく引き込まれる。
 一首目「剰る」の一語に、読者は胸を大きく開いて子を抱きしめる感覚を持ち、さらにそこには抱くべき何かの欠落があることまで予期してしまう。この欠落は下の句で「父のかなしみ」の感情という形を取って胸に流れ込む。感情の器となった読者にとって、「容る」という動詞は河野の実感であると同時に、自身の実感となる。
 二首目も同じく、家族に打ち当てた掌の「灼ける」痛みが、音や痺れるような余韻まで伴って伝わる。これはまた、自分自身が打たれたのと同じ痛みでもあろう。大胆なオノマトペで勢いを増す下の句には「髪とき眠る」と動詞が荒々しく重ねられ、指の間を粗く滑る髪の筋の感触までも伝える。「眠る」は、ただ「眠る」のではない。「眠るしかない」心の行き場のなさ、身体に託すしかない感情が生々しくあふれている。


はなみづき今年希有なる美しさ爆発しつつ美しさ咲く  川野里子『硝子の島』
透明の傘にて顔を薄めつつ列に加わる秋雨のデモ  吉川宏志『鳥の見しもの』


 時事詠や政治詠は、ともすればニュースを表層的になぞるような短歌になりかねない。歌人はそれを避けようと表現を工夫する。ここでも動詞に注目しよう。
 川野の一首は、福島の原発事故に取材した一連「かくもしづけき」の冒頭歌。事故そのものを詠むのではなく、「爆発しつつ」という印象的な動詞を用いて事故を連想させる。花の美しさを主題にとることで一首の独立性を保ちながらも、美しさと混交した恐ろしさ、躍動感の裏にある崩壊の予感は、まぎれもなく原発事故以降のわれわれが共有する心性の一側面を言い表しているといえる。
 吉川は、動詞を通じて日常生活の実感に引き寄せることで、政治・社会と詩的情感とを高い水準で結びつける。傘のビニールに顔が「薄め」られるとは、意外でありながら実感としても納得の行く、秀逸な情景描写だ。さらにこの描写の奥には、社会問題の前に無力な私人でしかない自身への歯痒さ、デモの意義への迷いが潜む。無力感を抱え、それでもデモに加わる一個人の使命感。それがさりげない日常と地続きであるがゆえに、読者はわが身を振り返り、胸を打たれる。

・動詞の時間感覚
 動詞は多くの場合に現実への働きかけを伴うため、ある動作の起点から終点、瞬間と持続、といった時間感覚を内包する。動詞の時間感覚は読者に働きかけ、一首に流れる時間を一瞬のうちに感得させる。これは名詞には苦手な分野であろう。(形容詞や助詞などを適切に扱えば可能ではあるが)


冬の花舗に店員らみな着ぶくれてばちんばちんと切りつづけている  染野太朗『人魚』


 クリアな印象の染野の一首。「着ぶくれ」ている様態の描写で冬の場面を具体的にイメージさせ、「ばちんばちんと切りつづけている」と、瞬発的な動作とその連続を、切れのいいオノマトペを添えて詠むことで、読者に時間そのものを体験させるような一首となっている。「花を」という目的語を省略して、動詞の動作性のみに焦点を絞った工夫も巧みだ。対象を冷静に観察する距離を保ちつつ、読者に実感を与えるために必要な語だけを的確に選び取る、非常に洗練された歌風の作者である。


新鮮なみどりのからだ走るなり生まれ出ていま蜘蛛になりたる  小島ゆかり『六六魚』
うつくしき蜘蛛生まれつぎわが猫に狩猟の炎もえあがりくる
猫たちに虫をいぢむる恍惚のときありて虹いろの両眼(りゃうがん)


 小島は、動詞の時間性をさらに展開し、小連作に生かすことで、大きな推進力を生み出している。引用歌は、歌集中で連続する三首である。
 一首目では蜘蛛が躍動感をもって「生まれ出」る瞬間が描かれる。二首目、その瞬間は初二句で「生まれつぎ」と端的に、しかし時間の連続を含みつつ表現される。三句目で蜘蛛に代わって登場するのは、蜘蛛の誕生を目撃した猫だ。「もえあがりくる」は、やはり変化の瞬間をとらえている。三首目では、猫の狩猟本能の「もえあがり」が、「いぢむる」という行動となって具現化する。
 一連の場面を詠んだ連作において、小島は少しずつ時間を進める。単一の瞬間を数首に分けて詠むということはせず、また時間を大きく飛躍させることもなく、ひとつひとつの場面を巧妙に動かしつつ、場面の連続性を丁寧に追う。この構成によって連作は読者の生きる時間感覚と重なり合い、より深い実感を読者にもたらすことになる。
 時間が詠み込まれた短歌は、一首や連作の内包する時間感覚と読者の時間感覚とを同期させることで、実人生の豊かさを生き生きと伝える力を獲得する。

・動詞の方向 内面へ/外界へ
 動詞には自己と他者という意識、そして意識の方向のイメージが刻印されている。たとえば「行く」と「来る」とはどちらも移動のイメージだが、自他間における動きの方向は逆である。


ぐいぐいと引っ張るのだが掃除機がこっちに来ない これは孤独だ  染野太朗『人魚』


 染野の一首では、「引っ張る」という他者への働きかけの意思と、それに対して「来ない」という他者による拒絶とが、逆接「だが」ですっきりと表現される。題材は卑近だが、自他間の齟齬を細やかな配慮をもって表現し、「孤独」に実感を与えた、印象的な一首だ。


地図に見し形(かたち)の如くととのひて三日月(みかづき)の湖(うみ)目の下(した)になる  土屋文明『山谷集』


 動詞はまた、作者と対象との心的距離や、意識が内に向かうか外に向かうかの内心の方向性をも表現する。土屋の一首では、本来「ととの」っているのは現実の地形自体ではなく、地図で見た自身の記憶の中の地形である。続く「目の下になる」において景観の変化の基準となるのも、作者自身の位置である。自身の認識に忠実に動詞を選ぶ土屋の創作態度がうかがえる。


怒をばしづめんとして地の果(はて)の白大陸暗緑海(しろたいりくあんりよくかい)をしのびゐたりき     宮柊二『多く夜の歌』


 「白大陸暗緑海(しろたいりくあんりよくかい)」という大きな破調の名詞の力強さが印象的な一首である。しかし実は、この一首を支えるのは印象的な四句ではなく、結句「しのびゐたりき」ではなかろうか。
 仮に、この結句を「思ひゐたりき」とするとどうだろう。遠く、冷たい海はあくまで実感の外部にとどまり、内面の「怒」は鎮まらない。緊密であったはずの一首はゆるみ、名詞の強さだけが浮き上がることになる。一首の成立には、内省を志向する動詞の選択が不可欠であったと言えよう。
 ところで、ここまで「ととのふ」「しのぶ」といった動詞選択の工夫を見てきたが、「見る」「思う」のようなさらに基礎的な動詞が一首を支えるに力不足かといえば、無論そんなことはない。


鳥の見しものは見えねばただ青き海のひかりを胸に入れたり    吉川宏志『鳥の見しもの』


 歌集の表題歌であるが、用いられている動詞は「見る」「見える」「入れる」の三語だ。かなりの基礎語と呼んで差支えないだろう。しかしそれらの動詞に対し、吉川はまず「鳥の見し」と他者を主語に据え、また過去の助動詞を用いて現在の自身から引き離す。その上で、明言されなければ作中主体は作者と同一視されるという短歌の特性を生かし、「見えねば」と自己に引き付ける。人称と認識のこまやかな処理によって、自己の認識の外側にある広い世界へと想像を飛躍させる。そうして広がった世界を、「胸に入れたり」と自身の内で結びつけることで、実感を伴いながらもスケールの大きな一首に作り上げた。

・結び
 短歌という小さな詩形において、歌人は隅々まで張り詰めた創作意識で一首を磨き上げる。数々の秀歌は、そうした苦心から生まれる。そして動詞は、たとえ一語でも、短歌にさまざまな実感やニュアンスを与え、短歌の豊かな可能性を開きうるものなのだ。
本稿が、実作・鑑賞両面において動詞の魅力の再発見の一助となれば幸いである。

文・三沢左右

「COCOON」 12号より転載

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