「されど愛しきお妻様」を推す理由2

 前回「結果を出すこと」を求めない場所が社会のあちこちに用意されるような社会であって欲しいと呟いたが、まずもって「教育」がそのような場所であるといいなと書きながら思っていた。あらゆる発達の途上にいる小さい方々・若者たちは、その一時点を「点」で区切ったら「できない」ことがたくさんある。どうしてもその結果で評価されてしまいがちであるが、でもどんな子どもたちもそれぞれのペースで脳がしごとをし、頑張っている。そのこと自体を「頑張ってるね!」と評価できる、そんな場所であって欲しい。

 だけど残念ながら、「できない」という結果は「頑張ってない」とみなされがちである。私自身も油断をしてたらそう思ってしまう時があるのでエラそうなことは言えないのだが、その図式を疑ってかかる姿勢をデフォルトとして身に着けたいものだと切実に思っている。

 何年か前、ムスメのクラスに忘れ物が絶えない同級生がいた。どういう理由で忘れ物をしてしまうのか、私は直接その子どものことを知っているわけではないので分からない。しかし先生から叱られても叱られても忘れ物がなくなることがなかったというあたりから、何か事情があるのだろうな、困っているんだろうな、と気になっていた。そのうちに子どもたちからも「困った子」認定されつつあったのだろうか、ムスメの口からもそういう言葉が聞かれるようになった。私はその時点で「これはまずい」と思い、ムスメに問いかけた。

 「ねぇ、その子は忘れ物したくてしてるのかなぁ?先生に怒られたいって思ってるのかなぁ?そんなわけないよね。誰だって先生に怒られたくないし、怒られると分かってたら、できることはするよね。でもそれだけ怒られても忘れ物なくならないっていうことは、もしかしたらどんなに頑張っても忘れ物しちゃうのかもしれない。(運動が苦手な)あなたがもし50mを8秒で走りなさい、走れるまで頑張りなさいってみんなの前で怒られたらどう?つらいよね、どんなに頑張っても8秒では走れないし、8秒で走れなくたってあなたはあなたなりにいつも頑張ってるんだよね。忘れ物もそれと一緒かもしれない。その子は先生に怒られて平気でいるように見えるかもしれないけど、本当は困ってるかもしれないよ。もしそうだとしたら、あなたがすべきことはその子を助けてあげることだとお母さんは思う。」

 今から思うと、教育者の対応への憤りやイライラをムスメにぶつけてしまった形になって大反省。そう、これはムスメに言うことではなくて、直接学校に投げかけるべきことだったのだ。「忘れ物をしないって、そんなに大事なことですか?怒られてばっかりのデキナイ子っていうレッテルが特定の子どもにはられるほうが、よっぽど深刻な事態じゃないですか?」と。

 書きながらイラっとしてきているのだが、
 そもそもなんで忘れ物しちゃいけないんですか?

 みんな大なり小なり忘れ物ぐらいする。生身の人間とはそういうものである。「社会は厳しい」なんて言うけれど、忘れ物はあり得ることだっていう前提でシステムが構築されてないことのほうが、人間の実情にそぐわないんじゃないのか?発達の凸凹やスピードの違いが顕著な教育の場ではなおさら、忘れ物を込みとした環境設定がされてないといけないだろう。必要な教材や道具は余分に用意しておいて、たとえ忘れ物があっても学習の機会が保障されていなければならない。100歩譲って「忘れ物をしない」アウトカムが目指されるのであれば、どうすればそれを達成できるのか一緒に考え工夫することまでが求められる。叱っても目標を達成できないのであれば、アプローチの方法を再考する必要があるだろう。

 こんなことを言ったら「忘れ物をしていいと生徒たちが思いかねない。」とか「気が緩んで忘れ物続出になるんじゃないか。」とか批判されそうだけれども、あのさぁ、忘れ物なんてみんな喜んでしたいと思うか?なんでそこを疑わないといけないんだろう。「忘れ物をしたことを赦す」ことと、「忘れ物をしていい」こととの間にはものすごく大きな隔たりがあると思うのだが、そこを教育する側が混同してどうするんだ、と思う。要は「自分が使うものは、自分で用意すること」の必要性や大切さを説く一方で、「それでも忘れることはあるので、許し合いましょう。」とすればいいだけの話である。そして頑張ってもできないのであれば、できるようにサポートをする。実にシンプルだ。

 でもプリプリ怒りながらこれを書いておいてなんだが、忘れ物にイラっとくる気持ちも分からなくもないのだ。いや、私自身は他者に対して元々「忘れ物をして欲しくない」という期待がほとんどないので「なんで忘れ物くらいでカリカリするの?」と思うのであるが、これが家庭内における「脱いだ服の脱ぎ散らかし」だったらどうか。日頃から「洗濯物は洗濯機へ入れるべし」と言ってまわっているのに、脱いだまんま床に転がる靴下・・・それは靴下という存在を超えて、「私の言葉が尊重されていない」象徴、あるいは私への悪意の塊と化す。そんな経験はございませんか?ございますよね。別になーんも考えずにぽいって脱いだだけの靴下なんだけどね。私へのメッセージなんてこれっぽちもないんだけどね。そう思える「余裕アリ」の日の方が多いんだけど。でも「私への嫌がらせか!?」と被害妄想に転じる瞬間というのは、残念ながらある。忘れ物もこれと同じだろう。「将来大人になって困らないように、今から忘れ物しないように気を付けましょう。」と口をすっぱくして説けばとくほど、忘れ物をされると「私の言葉が聞き届けられていない感」が増して許容できなくなるよなぁと。

 だから「忘れ物をしない」とか、「部屋の整理整頓」とか、あらゆる規範は他者が登場することできな臭くなるんだなぁと思う。1人で納得してそれ(規範)に従っている内はいいけれども、他者とそれを共有しようとするとちょっとしたズレが許せない。別に汚れた靴下がその辺に転がっていようと気にしない人は、人として悪というわけではもちろんない。いいとか悪いとかいう評価とは別軸で、単にそういう人だ、というだけである。第一汚れた靴下を「気にしない」というより、靴下そのものが目に入ってさえいないんじゃないだろうか。一方靴下が転がっていると「気になる」人もいて、これも別に人として立派というわけではなくて、比較すれば「部屋を片付けておきたい」タイプというだけだ。だから「気になる」人が靴下を片づければいいのであるが、どうしてもこちら側からあちらを見ると、「私の仕事を増やすやつ」に見えてしまうのである。まぁ「仕事量」ではかれば事実だし。だけどね、きっと別件では同じようなことがあちら側でも起こっているのだと思う。「野菜の苗を次々買ってくるくせに、なんで植えるのはボクなんだ!」とかね。「窓ガラスが汚い・・・(と呟くとすかさず妻に、拭いたし!と言われるが、どう見てもキレイになってないし、手の届くところしか拭いてないもんだから余計に汚れが目立つ。窓ガラスってどうやったらキレイになるんでしょーねーと興味なさそうに呟く妻。)」とかね。結局マイルール(規範)に則った「気になるポイント」が違うだけで、案外仕事量は変わらないんじゃないかな。なんて言うと、世の妻から猛反発がありそうだけど・・・最近は「名前のない家事」論争なんてのもあるし。というのは置いておいて。

 さてこうなってくると「気にしないもん勝ち」な気もしなくもないけど、そんな耐久レースも馬鹿馬鹿しい。だって気になるもんは気になる。「気になる」をコントロールできるようだったら、はじめから苦労しない。放っておけば1か月も2ヶ月も靴下はそこにオブジェのようにあり続けるだろうが、「気にしないふり」と「拾って洗濯機に入れる」エネルギーコストを比較したら、そりゃ拾うでしょ!

 著者の鈴木家では、家事改革の礎となる以下の原則を定めたそうである。

第1条、その家事は誰が望んだものなのかを考える。
第2条、本来その家事をやるべきはそれが必要だと思っている側なのだと知る。
第3条、その家事が必要だと思っている側が、必要ないと思っている側に家事を頼む行為は依頼を超えて「お願い」であるべきだ。
第3条2項、相手が必要ないと思っている作業をお願いしてやってもらっている以上、その仕上がりに文句を言うな。※P125

 なんかもう、「ジェンダー」とか、「見た目(作業量)の平等」とか、全く関係なくなってすごいなと思う。この基本原則において最もNGなのは、「自分が思う理想の状態」を相手に押しつけてガミガミ言う、ということになる。あるいはその反対に、お互い気にしなさすぎて部屋がカオスになったら、その時に「どうする?」「どのラインを目指す?」「どこまでできる?」って考えたらいいんだ。

 家事だけに限らず何でもそうだけど、「理想の状態(≒自分が思うあるべき姿)」に自分(たち)を合わせようとするからイライラもするし、平和が保てず時として修羅場と化すのだろうなと思う。でもきっと本当は逆で、自分たちに合わせて生活をすることができたら、「それでよし」なのだろう。もちろん理想を求めることが悪いのではなくて、理想があればこそ「そうありたい」と学び向上していけるのだ。でもそれが行きすぎると苦しいので、ぎりぎりバランスをとってやっていくしかない。たぶん、「理想」よりも「憧れ」くらいがちょうどいいんじゃないかな、と年を重ねて今思う。まぁできなくても、しょせん「憧れ」ですからねーって、言い訳の余地を残しておけたら自分も相手も赦すことができるのかもしれない。はい、年々楽になってるよ、私。

※「されど愛しきお妻様 『大人の発達障害』の妻と『脳が壊れた』僕の18年間」
鈴木大介著, 講談社, 2018.

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Nishio Misato
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