ユダヤ教の食戒律コーシャとは?
イスラム教の「ハラル」のように、ユダヤ教にも食規定がある。ユダヤ教徒が食べてもよい清浄な食品は「コーシャ(Kosher)」とされる。
ハラルは近年日本でも聞くようになったが、コーシャを耳にする機会はほとんどない。「宗教的な禁忌があるようだ」くらいの知識だった私がイスラエルの家庭で出会ったのは、意外なほどに多様で柔軟な食選択の世界だった。
出典:The Spruce
コーシャとな食べ物ってどんなもの?
ユダヤ教の食の清浄規定カシュルート(Kashrut)に適合するものが「コーシャな食品」とされる。非常に詳細に定められているので、代表的な規定だけを以下に示す。
1. 分かれた蹄を持ち、反芻する動物はコーシャ
→◯ウシ、ヒツジ、ヤギ、シカ / Xブタ、ウサギ
2. 鳥類は、極めて限られたものだけがコーシャ
→◯ニワトリ、カモ・アヒル、ガチョウ、七面鳥 / X他の鳥
3. 魚介類は、ヒレとたやすく取ることのできる鱗を持つもののみがコーシャ
→◯魚類 / Xエビ、イカ、タコ、貝類
4. 同じ料理の中に乳製品と肉を両方使うことはNG
→◯ステーキ / Xチーズバーガー
5. 二組の別々の調理道具、鍋、釜、皿などを家庭に備えること。一組は鳥と動物の肉の専用にし、もう一方は、それ以外の食品用にする。拭くためのタオルや乾燥棚も別々に用意する。
さらに屠畜方法や加工食品についても規定されている。詳しく知りたい方はコーシャジャパン(株)の説明をどうぞ。
イスラエルに向かうバスの中、失礼にならないよう、うかつなことを言わぬよう、ネットで調べて知識を頭に叩きこんだ。その細かさと不可解さに、異様な緊張感すら感じながら。
しかし実際に台所に入ったら、そんな形式的な知識ではまったく何も知らないに等しくて、訪れた三つの家庭の台所にはそれぞれのコーシャがあった。
「ほんとは食器棚半分だけでいい」シェアハウスのコーシャ
一軒目は、エルサレムで大学に通うタールの家。ルームメイトと三人でシェアハウスをしていて、キッチンには三家庭のコーシャ観が反映されている。
「今日はクスクススープにしよう」とタールが作り出したのは、根菜たっぷりのカレー味スープ。肉も魚も一切入れないのは、ルームメイトのハナがベジタリアンだからだ。「宗教とかじゃなくて、倫理的にね。動物が殺されるのがいやでベジタリアンになったの」とハナは語る。
ハナの両親はベジタリアンではない。しかし敬虔なユダヤ人ゆえコーシャの規定には厳しかったという。うちもそうと、もうひとりのルームメイトが口をそろえる。そんな親たちが来た時のために、食器棚には二組の食器がそろっている。「私たち三人はコーシャ守ってないから、ほんとは食器棚半分だけでいいんだけどね」と笑いながら見せてくれた。
できあがったスープは、一緒に食べるでもなく各自好きなタイミングでよそって食べる。「ずっと家にいるからね、食べたいときがごはん時」。
親元を離れた三人のシェアキッチンでは、この家の心地よいルールの一部として、彼らなりのコーシャがあった。
「慣れてしまった自分のルールがある」 親子でも違うコーシャ
二軒目は、リオと奥さんと三人の子供の家庭。夫婦共働きのこの家庭では、リオパパも頻繁に台所に立つ。
土曜日の朝食に彼が作るのは、ブリンツという厚めのクレープ。「こういう単調で根気のいる仕事は彼の方が向いてるの」と奥さんは言い放ってソファに向かう。
ブリンツの生地を慎重に均一に広げながら、リオは自分のコーシャについて教えてくれた。
「僕の家は敬虔なユダヤ教の家系で、コーシャにもとっても厳格だったんだ。実はコーシャの線引きは実ははっきりと決められたものではなくて、解釈の余地のあるもので。たとえば『同じ料理の中に乳製品と肉を両方使うことはNG』という規定がある。これを厳格に捉えると、別々の料理であっても口の中でまじるのはよくない、胃の中でまざるのも避けるべきではないか、という話になる。だからわが家では『肉を食べたあと7時間は乳製品を口にしない、乳製品を食べたあと3時間は肉を口にしない』というルールで生活していた。それが当たり前だったんだ。」
慎重に裏返し、丁寧に重ね、じっくり一枚ずつ焼いていく。奥さんはソファで子供をあやしながら、「まだー?」とそろそろ苛立ち気味だが、リオは「もうすぐ」と返事して同じペースで続ける。
「ある日学校から帰ってきたら、お腹がぺこぺこにすいていた。だからハムサンドを作って、ココアも作って、夢中でハムサンドにかぶりついてココアを飲んだ。その瞬間自分が何をしたかに気づいて、耐えられなくなって吐き出したんだ。ハムとミルクを同時に口にしてしまった。ありえないことで、動揺してしまった。
そんな厳格なルールを守ること自体は重要でないのだけれど、自分の心の平穏を乱す必要はないから、自分は今もこのルールで生活している。子どもたちは自分の選択で自由にしたらいいと思っている。」
奥さんがしびれを切らし、まだフライパンと向き合っているリオを台所に残して朝食は始まった。奥さんが手早くチーズクリームを包むと次々と子どもたちの手が伸び、焼いた時間の何倍もの速さでなくなっていった。
この子どもたちはハムサンドとココアも平気で食べる。一つの家庭の中でも、コーシャはそれぞれだ。
「食べたいと思わないから」一人暮らしのおばあちゃん
三軒目の家庭は、イスラエルに住むマリおばあちゃん。
一人暮らしのアパートに、今日は孫たちが遊びに来ていてにぎやかだ。
さらに姪っ子が来て、ご近所さんが来る。人が来るたびおばあちゃんは「鍋にスープがあるよ、食べるかい?」と尋ねる。鶏に野菜、素朴なチキンスープだ。
マリおばあちゃんは「コーシャは守っていない」という。
「鶏以外の肉は食べないね。コーシャ云々じゃなくてもう歳だから、重たくて食べたいと思わないんだよ。でも今日は娘がボロネーゼソースを持ってきたから、今日の昼はボロネーゼパスタよね。あの子はなんだか肉料理ばっかり作るのよ。」
イカやタコは食べないが、それは単に食べたことがなくて食べたいとも思わないから。
「昔ペルシャに住んでいてね、ペルシャ料理はおいしいから大好きだよ。でも一人暮らしにはスープがぴったりさ」と言いながら今日もまたスープを作る。
歳をとり、気兼ねする相手もいないマリおばあちゃんの食卓は、宗教とか倫理とかを凌いで、彼女自身の「食べたい」が最高規範だ。
三者三様、でも根本は勝手
コーシャの規定を書面で見るとものすごく厳格で、"ユダヤ教"という響きに異様さすら感じていた。しかし実際にそれのもとで暮らしているはずの人たちは、私たちと何ら変わらず「食べたいものを食べる」人たちだった。宗教とか信条って、勝手に作り出している想像の壁なのかもしれない。