きのこを刻みながら、ハプスブルク大帝国数百年の歴史を感じる
留学していたウィーンに、7年ぶりに帰ってきた。
学生として来ていた当時は、ただただすべてが新鮮で、あらゆるものに感動していた。料理を軸に世界を探検しだした今、台所を探検するために戻ってきた。
料理兄弟のもとへ
家庭の台所に行く前に、まずウィーン旧市街のレンク兄弟のもとを訪れた。この兄弟は、お父さんが始めたベジタリアンレストランを受け継ぎ、お店の他に料理教室も開いている。料理人と言うと家では料理しないという人もいるが、彼らはレストランで料理しつつ家でもほぼ毎日料理をするそうで、自分でも言っていたが本当に料理好きだ。
きのことパンで作る"新しいボイシェル"とは?
彼らと一緒に作ったのは、旬のきのこのクリーム煮。「元になっている料理はBeuschel(ボイシェル)という仔牛の内臓煮込みなんだけど、これは日持ちのしない内臓を食べるための、肉屋が食べるような二流の料理だったんだよ」と教えてくれた。そのクリーム煮にのせるのは、固くなったパンで作る団子。これまた庶民的な香りを感じる。
(↑もともとのボイシェル。gutekueche.atより引用)
しかしレンク兄弟のボイシェルは一味違う。彼らは仔牛の内臓をきのこに替え、パン団子にはビーツを入れておしゃれな色をつけ、まかないのような光を浴びなかった料理に華やかな新たな命を吹き込んでいる。
オーストリア料理は手が込んでいる?
最初に並んだ食材を見た時、意外に種類が多いことにひるんだ。これはもしかしてレストランで出す手の込んだ料理の部類なのではないか。
ところが彼らは首を横に振る。「オーストリア料理に複雑なものはないよ。なぜなら、オーストリアのハプスブルク帝国衰退とともに宮廷料理も衰退して、市民階級のものへとなっていったから。今の時代に残っているオーストリア料理は、決してハプスブルク家の"宮廷料理"ではなく、市民階級の"人々の料理"なんだよ。それに勢いのあった時代だって、ずっとフランスのまねをしつつフランスには及ばぬ帝国だったんだ」。
料理に反映される、フランスとオーストリアの盛衰
たしかに彼らのいう通り。ハプスブルク帝国は、13~20世紀の600年以上にも及んでヨーロッパを牽引したオーストリアの大帝国だが、全盛期にもフランスだけは領土にできなかった。
(↑カール5世時代、ほぼ全盛期のハプスブルク家勢力地図。フランスには力及ばず。画像出典:中世を旅する)
そして帝国崩壊後の近代は、世界中に植民地を広げるフランスに対して、オーストリアは植民地を持つどころか領土を縮小する一方。
(↑フランスの占領地および領土変遷。画像出典:Wikipedia)
そんな衰退の歴史を反映してか、現存するオーストリア料理はシュニッツェルもグーラシュもボイシェルも、帝国の宮廷料理というよりは家庭的なもので、まさに”人々の料理"。高級レストランの代名詞でもある”フランス料理”とは対照的だ。
そういう料理の歴史秘話を知ると、自分が今きのこを切っているたったそれだけの行為すらも、600年の歴史を引き継いだ尊いことのように思えてきて、なんだかとても誇らしく思えてくる。
料理をすることは歴史の一端を担うこと
普段自分の国の料理を作っていても、さほど歴史を意識することはない。7年ぶりに戻ってきた土地で、よそものでありながらハプスブルク家からの歴史の一部を担って料理ができることに、なんともいえない喜びを感じた。料理を通して、遠くの国の昔の人とも繋がれた気がした。
帰り道の散歩。街角の食べ物にも歴史の影
レンク兄弟に別れを告げ、そういう歴史を頭の片隅において街を歩くと、市場やレストランを見ても、浮き出して見えてくるものがある。
オーストリアを代表する料理のシュニッツェル(仔牛のカツレツ)はミラノから、グーラシュ(パプリカ煮込み)はハンガリーから持ち込まれたもの。
色とりどりのスパイス類は、アラブ諸国からもたらされたもののはずで、
チョコがたっぷりかかったカフェのケーキは、ハプスブルク一族の好物の結晶。17世紀頃カカオは非常に高価だったけれど、ハプスブルク家の人々が好んだために、宮廷財政を圧迫しても新大陸からの買い付けをやめられなかったという。
なんとも広い範囲から食文化がもたらされている。料理の技法は簡素になったとはいえ、今に引き継がれているものもある。
ボイシェルの余韻に浸りながら、街の風景から大帝国ハプスブルク家の栄枯盛衰に思いを馳せていた。
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