ユダヤ教のコーシャ規定「蹄の分かれた反芻動物は食べてよい」を動物学的に考えた
ユダヤ教の食戒律に適う食事を、コーシャという。イスラム教のハラルと同じように、食べてよいとされるものだ。一見不思議なルールもあるのだが、生物学の視点を借りて考察してみると、生き延びるための知恵が詰まっていて案外よくできている。
そのルールの一つ「食用にしてよい動物は、蹄が分かれた反芻動物のみ」について、一応は理解した気でいたのだがすっきりしないことが残っていた。
改めて動物学の知見を借りて考えてみたら、驚くほど合理的にできているのではと思えてしまったので、興奮してこの記事を書いている。
言うまでもなく、完璧な考察ではなく一つの見方に過ぎないのですが、別の視点は大歓迎です。
宗教的観点からの説明
そもそも旧約聖書に書かれたものなので、その理屈について明確な答えはわかっていない。一応確からしいと言われているのは、下記の説明らしい。
精神性としてはわからないでもないけれど、牛を見て「ああ神の言葉を繰り返しかみしめている清い動物だから食べてよさようだ」というのは、信仰心の薄い自分にはいまいち腑に落ちない。食は生きるための切実な手段であるのだから、「生存のため」という合理的・科学的な理屈で説明できないだろうか。そう考え、一つ一つ紐解いてみた。
「反芻する」と「蹄の分かれた」のそれぞれについて考察してみる。
①反芻動物とはなにか
反芻は「はんすう」と読み、牛や羊などが一度飲み込んだ食べ物を胃から口の中に戻して、再び噛んでからまた飲み込むことを指す。
私たち人間は、食べ物を反芻しない。肉食動物も、雑食動物も反芻しない。反芻するのは、草食動物のうちの一部だ。
では、なぜ彼らは反芻するのか。それは消化しにくいものを消化するためだ。
反芻するという行為は、一回胃に入れたものをまた戻して噛んで消化しやすくするという行為だ(転じて「上司の言葉を反芻する」などとも使われる)。なぜ消化しやすくなるかというと、胃袋に微生物が住んでいて、彼らが分解を進めてくれるからだ。
私たち人間は、そのへんの草を食べてもお腹いっぱいにならない。これは、草に含まれるセルロース(繊維)を消化する消化酵素を持っていないからだ。
ところが、反芻動物である牛は草だけで生きている。なぜだろうか。実は牛も消化酵素は持っていないのだが、胃の中に微生物に住んでもらって、彼らの力を借りて分解しているからだ。
むかしNHK教育で得た知識によると、牛の胃袋は4つある。
1つ目の胃には微生物たちが多く住んでいて、入ってきた食べ物を分解して吸収しやすい形にする。それを2つ目の胃が押し戻して口で咀嚼し直し、さらに吸収しやすくする。これが、3つ目の胃を通って4つ目の胃に進み、そこで胃液を分泌して最終的に吸収されるということになる。
つまり3つ目までの胃で「下ごしらえ」をすることで、普通は消化吸収できない繊維質までをも、4つ目の胃で栄養として吸収できるのだ。
参考:独立行政法人 農畜産業振興機構 消費者コーナー
この消化プロセスを理解した上で、食用にする生き物として反芻動物を見ると、最大の利点は「エネルギー変換効率がよいこと」ではなかろうか。
反芻動物であるウシと非反芻動物のウマはいずれも草を食べるけれど、同じだけの草を食べたときにどれだけエネルギーとして利用できるかを比較すると、反芻動物の方が効率がよい。より正確にいうと、繊維の割合が30%以上の草中心の高繊維質な食事では反芻動物の方が有利で、濃厚飼料など低繊維質の食事の場合は非反芻動物の方に軍配が上がる。
参考:ウィスコンシン大学マディソン校講義資料
ユダヤ教が生まれたシナイ半島の環境を考えてみると、砂漠気候で植生は乏しい。草もそんなに豊富には育たない。共存する相手として、人間が食べられない草を食べて育ってくれる草食動物が好都合であることはもちろん、その中でもより効率良く草のエネルギーを利用できる(=少ない草で育つ)個体の方が都合が良い。すなわち「この土地で多くの人が生き延びるには、人間と食べ物を取り合うような肉食・雑食動物には手を出さず、草食動物の中でも反芻して草のセルロースを消化し尽くす動物を食用とすべし」と読み替えることができるのだ。
②蹄の分かれた動物とはなにか
もう一つの条件である蹄に目を向けてみよう。ややこしくて頭がこんがらがりそうだが、どうか辛抱して読んでほしい。
動物学では、蹄が偶数の動物を「偶蹄目」、奇数の動物を「奇蹄目」という。蹄が2つに分かれたウシは偶蹄目で、蹄が1つで分かれていないウマは奇蹄目だ。
ということは、「蹄が分かれた」という文言は、偶蹄目と読み換えることができる。偶蹄目の動物について調べると、その特徴として「反芻すること」が挙げられている。
だったら「蹄がわかれた」と「反芻する」は同じことを言っていて重複条件なのでは、と思ったのだが、厳密にいうと反芻するのは偶蹄目の中の反芻亜科の生き物の特徴で、反芻しない生き物も少しいるようだ。
蹄が分かれているけれども反芻しない動物には、ラクダやブタ該当する。
ここまでの話を整理すると、こんな包含関係になっている。
ということは反芻の条件を満たせば、自動的に蹄の条件はクリアされるはずだ。あれ、重複条件ではないか??
③ 「反芻する」だけで事足りるはずなのに、なぜ蹄の条件が必要なのか?
ここからは、完全に推測。
おそらく、反芻するかどうかの判断よりも、蹄の見た目で判断することの方がずっと容易だからではないだろうか。
反芻するかどうかは、生きた動物が食事をしているところをずっと観察していないとわからない。食肉として加工され売られているものを見てもわからないのはもちろんのこと、生きた動物をずっと見ていても、口をモゴモゴ動かしているウマが反芻動物ではないというのだから判断は難易度が高い。
一方蹄の話だったら、死んだ状態でも判断できるし、素人目にも判断しやすい。
ということは、一見重複条件に見える文言は、「反芻動物だったら食べていいんだけど、反芻するかどうか判断するのは難しいよね。反芻動物と蹄がわかれた動物はおおむね一致するから、ひとまず蹄の条件で判断したらいいんじゃない?」と読めそうだ。
④ だったら蹄の条件だけでよいのでは?なぜ反芻の条件が必要なのか?
もうここまできたら、蹄だけで判断したらいいんじゃないか。だってほとんどの偶蹄目が反芻するのだから。多少バグがあったとしても、私だったらシンプルな条件にしてしまいたい。しかしそれでも反芻の条件を切り捨てなかったのは、ラクダとブタを排他したい強い理由があったと考えられないだろうか。
ラクダは砂漠の使役動物として有益で、一方食肉としてみると非常に飼料効率が悪い動物だ。肉のためにわざわざ殺すよりも、生かしておく方がずっと賢明だ。ブタはというと、雑食性のため人と食物を取り合うし、暑くなると体温を下げるため泥浴びをするので不衛生だ。感染症を媒介する可能性もあるわけなので、積極的に排他したい。このあたりはイスラム教で豚が「穢れた動物」とされているのと同じ理由で説明できる。
そう考えると、「蹄の条件だけで8割型いいんだけど、ラクダとブタはやっぱり排除したいから、皆が反芻の判断ができなかったとしても一応入れておこう」と解釈できないだろうか。
「蹄の分かれた反芻動物〜」は効率良く生き延びるための知恵
思いがけず長い道のりになってしまったが、「食用にしてよい動物は、蹄の分かれた反芻動物のみ」というルールは、乾燥したシナイ半島の土地で、余計な環境負担をかけず皆が効率よく生き延びるための"食肉利用マニュアル"と言えるように思えてきた。
旧約聖書やレヴィ記の時代の人がそこまで動物学を理解していたかはわからないけれど、経験則に基づく感覚的理解があったのではないかと私は信じたい。何にせよ、結果的にとんでもなくうまくできているのだ。
追記:
ご指摘をいただき、マーヴィン・ハリス「食と文化の謎」を読み直したら、その内容を組み立て直していただけだったことに気がつきました。昔読んだ時はイスラム教の豚食禁忌の話が強烈に印象に残り、一方でコーシャについてあまり理解していなかったこともあってすっかり忘れていたようです。自分で発見したような気になっていてお恥ずかしい。。
この記事で書いた話は、名著「食と文化の謎」により詳しく、包括的に書かれているので、深く正確な理解を得たい方はどうかそちらを読んでください。反芻については第3章「おぞましき豚」、蹄については第4章「馬は乗るものか、食べるものか」に書かれているので、一冊読めば理解が深まるはずです。