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幸せになれる薬
天井はうねりにうねって神様の顔らしきものが見える。眼を閉じれば曼荼羅が広がり危うく飲まれそうになる。
「これはまずいな……」
朧げな意識の中、水でも飲まねばとベッドから体を起こしサイドテーブルの上にあるペットボトルに手を伸ばす。ペットボトルは手からするりと抜け落ちて火の点いた蝋燭がバラバラと落ちていく。ああ、火事になってしまうと、しかし焦るわけでもなくゆっくりと床に這いつくばるとそれはボールペンだと気づく。手に取ったのはペットボトルではなくペン立てだった。拾い集めようと一本手に取る。見た事のない蛇のボールペンだった。いつの間にこんなペンを買ったのだろう、晴樹の忘れ物だろうか。思考はふわふわと回っている。するとペンはどろりと溶けて手の間をすり抜けていった。初めからこのペンはなかったようだ。
「飲みすぎたな……」
わたしはそのまま床に寝そべり動かなくなった。いや、動けなくなった。そして曼荼羅に飲み込まれるように意識を失っていった。
わたしがポトスラという薬に手を出したのは晴樹と別れた直後だった。わたしは街で晴樹が女と歩いているのを見て激昂した。しかし、仲睦まじそうな二人を見て口惜しさと怒りと恥ずかしさまで湧いてきてその場では何も出来ずにすべてを込めた涙を流しただけだった。その夜、主婦の買い物レシートの様に長々とした長文をLINEで送り付けた。晴樹からの返事は「あれ妹だけど」の六文字だけでその後、こちらからLINEを送っても返事はなかった。翌日のデートの待ち合わせに気まずく行くと開口一番に別れを告げられた。あんな長文LINEを送る女は嫌だそうだ。
それからわたしは意気消沈として過ごしていた。ああ、なんて勘違いだったのだろう。その落胆具合は誰から見てもわかるようでいつもは話しかけてくる友達ですら距離を置くような落ち込み具合だったのだ。それでもわたしは大学にはちゃんと通っていた。
退屈で理解する気もないロシア文学の講義を受けながらわたしは死んだ目をして黒板を眺めていた。どうせこの講義は出るだけで単位は貰えるのだ。だから寝ている学生もいたし携帯電話をいじっている学生もいた。わたしはなんでこんな所にいるんだろう。するとわたしのiPhoneがブルッと鳴ってLINEの通知が来た。もしや晴樹かな、と思い開くと寛奈からだった。
「講義のあと時間ある?」後ろを振り向くと寛奈が携帯を片手に手を振っていた。わたしはiPhoneに目を戻し、「あるけど」と返信をした。「話があるから学食でも行こ」の後にパンダの笑顔のスタンプが送られてきた。なんだか私は少し嫌な予感もしつつ猫がお辞儀しているスタンプを返した。
学食でわたしは何も食べる気がせず自販機のコーヒーを飲んだ。寛奈はかつ丼とラーメンを交互に食べていた。よくこんなに食べてスリムな体系を保てているものだ。寛奈は付け合わせのザーサイを指差し「食べる?」と聞いてきた。コーヒーに合うとでも思っているのだろうか。食べ終わるのも待つのも時間の無駄だと思い話をはじめる。
「話って何?」
「いや、小川ちゃん最近落ち込んでるみたいだからさ。もしかして堺くんとなんかあったの?」
「……晴樹とは別れたよ……」
「えー、そうなんだー。あんなにラブラブだったのにー」
あれだけ落ち込んでいるわたしの傷を抉るような笑顔だ。もしかして私の別れを祝福でもしてないか?と思う程に。
「ウチもさー、去年の夏かな?彼氏と別れてさー……そりゃ小川ちゃん並みに落ちこんだものよ。ナルト食べる?」
「いらない。てか何?慰めで呼んだの?別にそういうの求めてないんだけど」
「違う違う、失恋に効くいい方法があってさー。試してもらうのもありかなって。気持ちが切り替わるよ」
かつ丼のグリーンピースを避けながら寛奈は続ける。
「失恋ってさー、いつまで引きずっててもしょうがないじゃん?だから自分を変えるきっかけが必要なわけよ」
「……まさか宗教の勧誘?ここ一応カトリック系の大学なんだけど」
「違う違う、ちょっと詳しく話すから食べ終わるまで待ってて」
勝手な事を言いながら寛奈は掻っ込むようにかつ丼を食べ、ラーメンを汁まで飲みきった。
「なんかまだ足りないなー……おにぎりも食べようかな……」
「あんたどれだけ食うのよ」
「ポトスラ飲まなくなってからお腹空いちゃってさー、飲んでるときは全然食べなくて平気だったのに」
「なにそれ?抗うつ剤かなんか?」
「んー。失恋の薬かな」
「失恋の薬?」
「失恋だけじゃないんだけど嫌な事があってそれを飲むとハッピーになるわけよ」
「なにそれ、麻薬みたい」
「一部の海外では麻薬にも指定されてるみたいだけど日本ではまだ合法だよ」
「なにあんた、そんなもん勧めようとしてきたの?」
「ウチこの間、彼氏できたじゃん。で、今はポトスラなくてもハピネスだから小川ちゃんにどうかなーって思って。依存性ないしウチみたいにスパッとやめれる安全な薬だよ」
「……」
わたしは黙ってしまった。そんなものを薦められるとは思っていなかった。でももしかすると今の気持ちは消えるかもしれないな……と少し思ってしまったのも事実だ。わたしが黙っていると寛奈はニパッと笑いサイフからシートに入った二錠の薬を取り出した。
「とりあえず一回だけ試してみなよ。もし怖かったら捨てればいいしさ。ウチ、百錠くらい持ってるから持て余してるんだよね」
無理やりわたしの手にシートをねじ込んだ。
「一回二錠。ふわふわして気持ちよくなるだけだから。ふわふわの効き目は六時間くらいだから夜飲んだ方がいいよ。あとお腹いっぱいで飲むと気持ち悪くなるから晩ごはん食べないで飲んでね。あと少しフラフラするから部屋の中で飲んだら横になってた方がいいかも。もし効いたらまとめてあげるから!じゃ、ウチは彼氏に呼ばれてるから!」
つらつらと使用方法を説明すると走り去る様に寛奈は行ってしまった。わたしは薬を握りしめてどうしたものかと握った手を見つめた。
その日はバイトが無かったので家にはまっすぐ帰った。そしてテーブルの上に薬を置いてこれを飲んでいい物か悩みに悩んだ。晴樹のことはもちろん落ち込んだままだし薬で気を紛らわせられるならそれもいいのかと思った。だが違法ではないとはいえ麻薬は麻薬だ。そうだ、晴樹に相談しようとiPhoneを手に取ったところでもう晴樹とは別れたのだと思い出した。これはいよいよだ。薬に頼った方がいいかも知れない。ちょうどよく夕食も食べていなかった。
わたしはコップに作り置きのルイボスティーを注ぐと手のひらにポトスラをシートから取り出した。飲むのは怖い。だが晴樹のことが忘れるならと錠剤を口に入れルイボスティーで一気に流し込んだ。飲んでからもしばらく恐怖は続いた。
横になってた方がいいと言っていたな、と思いベッドに寝転んだ。しばらく天井を見つめていたが何も起きる気配はない。なんだ、嘘でも吐かれたのだろうか?と思いながら体を起こす。どうせ起きていても晴樹のことを思い出すだけだし今日はもう寝ようと思った。Bluetoothスピーカーのスイッチを入れてiPhoneでMrs. GREEN APPLEを流す。寝る前に音楽を聴くといい夢が見られると言っていたのは晴樹だった。わたしはそれを信じて未だにこの習慣を続けているがどれだけ未練たらしいのだろう。しかもMrs. GREEN APPLEは晴樹の好きだったバンドだ。
寝る前にメールチェックしておかないとなとiPhoneを手に寝転んだ時だった。体がふわっと浮く感じがしたのだ。わたしが驚いていると布団がいつも以上にふわふわだった。いや、わたしの体がふわふわ浮いているようだった。音楽が体の中を幸せを運ぶように流れる。天井のLEDライトはいつもと違う輝きをしている。まるで神様が唄いながら微笑んでいるようだった。
わたしはふわふわの時間を楽しんだ。脳内は何も考えていないのに幸せな気持ちに溢れている。晴樹のことを少し思い出しても「どうでもいいや」と思えるくらい幸せな気持ちになれた。こんなに幸せな気持ちになったのは初めてかもしれない。わたしはきっと微笑んでいるんだろう。晴樹に振られて以来はじめての笑顔だ。この時間がいつまでも続いてくれればいいのに。
いつの間にか寝ていたようだ。目が覚めると今まで味わった事のないさわやかな目覚めだった。これからピクニックにでも行きたいような、浜辺を裸足で走り出したいような……
朝食に食べたトーストは今まで味わった事のない美味しさだった。これだけ美味しいパンは本場ヨーロッパ中を周っても食べられないだろう。ルイボスティーも神の水と言っても過言ではないくらい美味しくて三杯も飲んでしまった。駅に行くまでわたしはスキップをしていった。そして駅のホームで気づいた。今までずっと考えていた晴樹のことを今日は考えていない。
「どうだったー?」
大学の廊下で鉢合わせした寛奈は無邪気な顔でわたしに問いかける。笑顔で答える。
「すごく幸せだった!晴樹の事も忘れちゃったみたい!もうわたし晴樹無しで生きていける!」
「そうかそうか、それはよかった。ではこれを授けよう。」
寛奈は薬のシートの束を渡してきた。十シートほどだろうか。という事は百錠以上はある。
「ウチはもうハピネスだから!小川ちゃんもハピネスになりな!じゃ、わたし講義いくから!」
そう無邪気にほほ笑むとまた嵐のように去って行った。
わたしはそれから毎日ポトスラを飲んだ。毎日が幸せだった。バイト中にも「小川さんどうしたの?人が変わったみたい……」と言われて「生まれ変わったんです!」とハイテンションで答える。わたしはハピネスだったのだ。
そんな日が三週間過ぎた。日を追うごとに明るくハイテンションになっていた。やる気のなかった講義でもやたら教授に質問をした。知らない人にも話しかけるようになった。友達にはテレビで見たギャグをやって失笑を買いながら自分は爆笑をしていた。徐々にあいつは妙だと思われてきたようだがそんな事には全然気づかなかった。
ある日のこと。ポトスラを飲むために毎日夕食は抜いていたのだがその日はバイトの飲み会だったので飲んだり食べたりをせざるをするを得なかった。飲み会でもわたしはハイテンションだ。「こんにちわー!」と謎に錦鯉長谷川のギャグを連呼していた。みんなは「酔ってるなぁ」と言っていた。「ワイルドだろう?」とスギちゃんのギャグで返す。わたしはもう素でもこのテンションになっていてハピネスを極めていたのだ。しかし帰るころには「今日は食べちゃったからポトスラ飲めないなぁ」と少ししょぼんとしていた。一度、夕食を食べてポトスラを飲んだ時には今まで襲われた事のない吐き気に襲われてトイレを抱え込んで寝たのだ。起きたらハピネスではあったが。
「じゃあわたし地下鉄なので!サブウェイ!」
コマネチのような動きをしてみんなが爆笑する。
「気をつけて帰れよー!酔っ払いー!」と叫ばれながら駅の階段を下りていく。電車を待っている最中もわたしは上機嫌で鼻歌でMrs. GREEN APPLEを歌いながら髪の毛をいじっていた。森林公園行きに乗り電車の扉が閉まる。思わず「出発進行―!」と叫びたくなる。鼻歌を歌いながら駅のホームを見ると見慣れた顔があった。晴樹だ。しかも隣には女がいた。わたしは無意識に「お幸せに―!」と手を振る。晴樹は一瞬こちら見て目が合った。驚いた顔をしていた。電車はそのまま森林公園に向かって走りはじめた。
次の日の朝。わたしは久しぶりに素に戻っていた。ポトスラを飲む前、いやそれ以上に落ち込んでいた。晴樹の隣にいた女は誰なのだ?新しい恋人なのか?わたしと別れて一ヶ月でもう新しい恋人ができたのか?ナーバスだ。土曜日で助かったと思った。朝ごはんはまだだったのでポトスラを二錠、口に放り込んでルイボスティーで流し込んだ。そしてベッドに倒れ込んだ。しかし今日は全然気持ちよくならなかった。妙だ。いや、効かなければもっと飲めばいいじゃないか。そう思いもう二錠、念のためもう二錠。あわせて四錠を口に放り込んだ。ベッドに倒れ込みMrs. GREEN APPLEをかける。徐々に多好感が押し寄せてくる。いつもの何倍も気持ちがいい。天井は少し波打っているようにも見え目を閉じれば鮮やかな色がキラキラと光る。わたしは「えへへへ」とはたから聞けば妙であろう笑い声をあげる。
ふわふわとしながら六錠でこれだけ気持ちいいなら全部飲んじゃえ!と思った。そう思うとぐにゃぐにゃの世界で残っていた薬4シート半、四十錠以上をすべてルイボスティーで流し込んだ。
ベッドに倒れ込むと世界がグニャアアと曲がっていった。晴樹が部屋にいるように見えた。そして猛烈な幻覚に襲われたのだ。
目を覚ますと宇宙船にいた。体は動かず周りには宇宙人がウロウロしている。わたしは朦朧としてずっと天井を見ていた。あぁ、わたしは死んだから宇宙に連れていかれるのだな。それは怖くも無かったし何も考えることが出来なかった。宇宙人は時間が立つと来る。そして去って行く。もう一度来る。去って行く。わたしは宇宙人に観察をされているのだなと思った。そうしてこのまま解剖でもされるのだろうと思った。でもそれも怖くなかった。どうせわたしは死んでいるのだ。
しかし何度か宇宙人が行き来しているうちにそれが看護師だとわかった。
「小川さーん、意識ハッキリしましたか?」
わたしは声が出せずに少し小さく頷いた。
「小川さん、なんでここに来ちゃったかわかりますかー?」
わたしは小さく首を振る。
「お薬飲みすぎちゃって急性薬物中毒になったんですよー。後で先生が来るから詳しくお話しますねー」
どんどん意識がはっきりしてくる。ハッピーという気持ではなかった。落ち着いた、無のような気持ちだった。当直医らしき先生が来て話をする。わたしは昨日ポトスラを飲みすぎてその後友人に電話をかけたらしい。そこで異変を感じた友人が救急車を呼んでわたしは病院に運ばれたそうだ。友人に電話をした記憶はない。記憶が飛んでいる間に何があったのだろう。わたしは薬が抜けたら今日すぐに退院していいそうだ。
「ご友人、お迎えに上がってるのでお礼言ってくださいね」
そう言われ出口に案内された。自動ドアが開くと晴樹がいた。わたしが面を食らってると晴樹がめんどくさそうな顔をしながら口を開く。
「お前さあ……」
「ごめん……」
「……」
二人の間で無言が流れる。口を開いたのは晴樹の方だった。
「ごめんな……」
「え?」
「お前がそんな風に思ってたなんて知らなくてさ」
「え?」
「お前電話で言ってたじゃん」
「……わたし記憶なかったから何話したか覚えてなくて……」
晴樹は大きな声で笑った。
帰りのタクシーの中で話を聞く。どうやら私が言った事を要約するとこうだ。
「わたしは晴樹と幸せになりたい!」
「何かに頼らないで晴樹と幸せになりたい!」
「晴樹がまだ好きなの!」
自分でも歯が浮く事を散々言ったらしい。
「あとは「部屋に神様がいる」とか「壁紙が溶けた」とか「私実は革命家なの、ごめんね」とかわけわかんない事を散々言ってたから救急車呼んだのよ」
わたしは俯いて赤面していた。そんな散々な事を好きだった人に言っていたのか……申し訳ない事をしたと思った。そうして同時に地下鉄の駅で見た晴樹の隣の女性の事を考えていた。
「なぁ、やり直す?」
「え?」
「いや、俺たち」
意外な言葉が晴樹から出た。でもわたしはあの女のことを思い出す。
「駅で見たあいつだろ?あれ下の妹。俺、妹二人と姉ちゃんがいるのよ。見られるたびに嫉妬されてたら敵わねえわ……でも思えば全然お前に俺の事って話してなかった。もうちょっと丁寧に付き合えばよかったなと思ってさ、それに俺がいないとお前ダメみたいだし」
わたしは嬉しくて泣きそうになった。こんな無茶苦茶なわたしを受け入れてくれるんだ。わたしは小さく頷いた。すると同時にiPhoneが鳴った。画面を見ると寛奈からのLINEだった。
「やっほー!ポトスラがまだあったんだけどいる?」
わたしは一息ついて返信をした。
「わたし今、ハピネスだから大丈夫!」
使った事のない猫がダンスをしているスタンプを送り、晴樹の肩に寄り掛かった。その幸せはあんな薬の何倍も現実味があってあたたかい物だった。
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