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働いた方が勝ち



僕はニートだ。母と祖母に寄生している厄介者。
一日の大半は部屋で動画サイトやケーブルテレビを見たり、漫画や本を読んで過ごす。
家からはほとんど出ないで食事は母の用意した物を一人で食べる。
家族と会話する事もほとんどないが仲は険悪かといえばそうでもない。僕にとっても家族にとってもお互いは空気のような存在に近くて、同じ屋根の下に暮らす3人という事で落ち着ていた。母や祖母は諦めているようだったし、30近くになった僕も自分のことを諦めていた。

高校を卒業してすぐに就職はした。印刷工場のラインでライン作業をしたり日雇いで入ってくるアルバイトに指示を出す仕事で一半年ほど働いて、漠然と嫌になって仕事を辞めた。仕事がつまらなかったというのはあるが辛かったわけでもなくて続けても良かったとは思っているが、ただ漠然と働きたくなくなったのだ。

退職して僕は「次の仕事が決まるまでゆっくりしたい」と言って家族に寄生しはじめた。食費や光熱費、自分が遊ぶ金だって母か祖母が出してくれた。遊ぶと言っても遠方に行くことはなくて週に一回くらい近所のドンキホーテに行くか、近所のコスモモールというショッピングモールをぶらぶらするか、古本市場で本やDVDを買ったり立ち読みするくらい。贅沢な買い物なんかも家庭内暴力なんかもしなくてニートとしては大人しい方だ。家族は「どうせすぐに働くだろう」と思っていたんだろう。それから数年の間は母も「仕事探してる?」とか「ハローワーク行ってみたら?」とか「バイトでもいいからさ」なんて言っていたが数年経つと母は何も言わなくなったし祖母はかわいい孫にとニコニコと僕の小規模な遊びの小遣いをくれた。

そんな生活が数年過ぎた。もう母も諦めたようでしばらく仕事の話なんてされなくなった。僕は働く気も起きずに相変わらずダラダラの一日を毎日過ごしていた。
母が珍しくリビングのテーブルで
「ちょっとこっちに来なさい、大事な話があります。」
と言い出した。久しぶりの仕事をしろという事かと思っていやいやと母の正面へ座る。

「母さん、再婚することにした」

寝耳に水過ぎた。話を聞くと職場の同僚の依田さんとここ何年か付き合っていたようで(そういえば帰りがやたら遅い日や旅行に行ったりなんかしてる日もあったが全然気にしていなかった。)その依田さんという人と一緒に暮らす事になったらしい。

「じゃあその依田さんって人と暮らすの?」
「うん。」
「へぇ・・・うちに来たらなんか小うるさく言われないかな?」
「何が?」
「いや、ほらさ。働けとかさ。」
「依田さんうちには来ないよ。」

結婚をするのに別々に暮らすのか。今の世の中、ライフスタイルは沢山あるし、僕はその依田とか言う会った事もない義父に気を遣う事もないなと思いほっとした。

「私、新潟に行くから。」
「え?」
「だからあんたとばあちゃんは埼玉に残って。」

寝耳に水が続く。ちょっと混乱してきた。詳しく話を聞いていると依田さんの実家は新潟で小さな会社をやっているらしい。ただ、父親の具合が悪く後を継ぐために新潟に帰るという。だから私もついていく、という話だ。

「え、じゃあそれじゃあ僕はどうすりゃいいのさ。」
「この家は残していくから。ローンもあと3年だし、それは払うし家さえあればどうにかなるでしょ。固定資産税も払うしさ。」
「え?じゃあ家事とかは?ばあちゃんもう家事とか出来ないでしょ?」

もちろん僕も出来ない。家の事なんて家族に任せっきりだったしずっと実家住まいだったから暮らしの事なんて全然わからない。高齢の祖母はボケてもないし寝たきりでもないし介護は必要はないものの足腰が弱く昼間に送迎だされデイケアに行き帰ってきて毎日ずっとロッキングチェアに座ってケーブルテレビの時代劇を見る事しか出来なかった。

「大丈夫、ばあちゃんお手伝いさん雇うってさ。病院に連れてくとかそういう事はヒロシがやってくれるって。」

ヒロシというのは僕のおじさん、母の弟だ。祖母のことは母に任せっきりだったしもう何年もあっていない、たまにお正月に挨拶に来ても僕はばつが悪そうにあけましておめでとうございますと言って従妹の子供にもお年玉をあげず部屋に戻り部屋にこもって逃げたりしていた。

「ヒロシなら大丈夫じゃ。」

いつの間にか祖母はリビングのソファに腰かけ会話に参加してきた。

「ヒロシはわしがようけ可愛がって育てたんじゃ、最後までめんどうみてくれよう。」
「ばあちゃんとはもう話し合ってるから。あとは正紀が考えて。わたし、もう来月新潟に引っ越す事にしたから。」

なんて自分勝手な人たちだろう。ずっと僕のことをほったらかしといて気づいたらもっとほったらかそうとしている。いや、ほったらかしていないからこそずっと家から追い出しもせずニートでも何も言わなかったんだろうか。僕は黙ってしまった。

「あんたは今まで通りでもいいよ。でもそのうちどうにかしなきゃならない時が来るから。」
そう言って母は部屋に戻っていた。

「大丈夫じゃけ、わしらだけでなんとかなる。江里はようやったよ、これから二人で暮らそうな。」
と言って祖母も部屋へと戻っていった。

それから悶々としながらもニートをさせて貰ってる以上、これからもさせて貰える以上文句も言えない、家から追い出されるわけでもない。生活費は祖母が出してくれるし、家事はお手伝いさんがやってくれる。ちょっと環境が変わるだけだと思って一ヶ月を過ごした。

母は大きなキャリーを一個だけもって「じゃ、頑張ってね。」と言って依田さんの車に乗って新潟へ旅立ってしまった。依田さんは車から降りても来ず、僕は義父になる人の顔すら見れなかった。母がそうさせたのかもしれないし、話を聞いていた依田さんが会いたがらなかったのかもしれない。母は僕の知らない誰かの妻になって遠くへ行ってしまった。



生活はあまり変わらなかった。僕はテレビ、インターネット、読書で一日を潰していたし食事も母の用意した物からお手伝いさんの作ったものに変わっただけだった。祖母の病院もヒロシおじさんが車で連れて行ってくれてた。祖母は前みたいに遊ぶ金だってくれたし、誰も僕に働けなんて言わなかった。だから僕はそのまま数年過ごしてしまった。



「ねぇ、正紀さん。」
あまり話したことのないお手伝いさんが急に古本市場から帰ってきた僕に話しかけてきた。
小さな声で
「おばあちゃん、最近わたしの事を江里さんって娘さんの名前で呼ぶの・・・それに正紀さんのことはヒロシさんって呼んでて・・・ちょっとボケてきちゃったのかもしれないわ・・・」

祖母とはあまり会話もせずに今日も「出かけてくるからお金頂戴」「はいよ」と言って5千円を手渡され「いってらっしゃい」という会話しかしていなかった。ほとんどそんな会話しかしていなかった。僕は祖母が痴呆症になったことに気づかなかったのだ。

それから急速に祖母の痴呆は進んだ。僕に「ヒロシ、学校に行かなくてええんか?」と聞いて来たり、急によぼよぼの足で台所に立ち料理をし始めてぼやを起こしかけてお手伝いさんが消防車を読んだり、「江里が帰って来ん」と言って出て行ったきり迷子になって警察に保護されたりしていた。でも僕はどうしていいかもわからずにすべてをヒロシおじさんとお手伝いさんに任せていた。


珍しく僕のスマホが鳴った。スマホでたまにゲームをしたりベッドでTwitterを読むことくらいにしか使ってないスマホが急に鳴ってびっくりした。母からだった。母と1年ぶりくらいに会話をした。

「ばあちゃん、施設に入れる事にしたから。」
ヒロシおじさんと話し合ってそういう事になったらしい。

「じゃあ僕はどうすればいいの?」
おろおろと母に尋ねる。

「ばあちゃんの年金は施設の費用になるから当てにできないよ。だからあんた働きなさい。家はあるんだからバイトでどうにかなるでしょ。家の税金だけは払ってあげるから。」
「でも・・・」
と言いかけた所で母は
「あんたは今まで甘えすぎてたんだよ!」
と怒鳴って電話を切ってしまった。
少し考えて僕も新潟でニートをさせてもらえない物かとまた甘えた考えで母に電話をした。着信拒否になっていた。


それから数日後、ヒロシおじさんが迎えに来て祖母は施設に向かった。
「お土産ようけかってくるけぇ」と温泉旅行に行くと思い込みながら。

ヒロシおじさんが「これでしばらく生活しろ、姉さんからだ」と言って10万円入った封筒を渡してきた。
僕は狼狽えながらヒロシおじさんに尋ねる。
「これでいつまで生活できるんですか・・・?」
「さぁ?1ヶ月は生活できるだろ。それまでにどうにかしろ。」
と言うと車に乗り込み祖母と去って行ってしまった。


僕は頼るあてがくなってしまった。お手伝いさんはもうもちろん来ないし、これはいよいよだ。1ヶ月以内にどうにかしないといけない。仕事を探して家事を覚えて家のことをする。自身はなかったけど僕は見捨てられたのだ。もう29歳だ。どうにかしなければ。


僕なりに頑張ってアルバイトの面接を10件ほど受けた。ほぼ全滅だった。29歳職歴ほぼ資格無し、空白期間だけ大量にある元ニート。そんな人を雇う酔狂な企業なんて埼玉の田舎町にはなかった。唯一、郊外にあるコンビニだけが「研修受けてどうにかなりそうなら」と試用期間ありという条件で雇ってくれた。

しばらく研修になった。週に3回レジの打ち方、商品の陳列、掃除の仕方、廃棄の捨て方、フライヤーの使い方、マルチコピー機の使い方・・・覚えることは山ほどあったがどうにかこうにか身につけていった。

僕が研修で一番覚えられなかったこと。
それはタバコの銘柄だ。タバコなんて吸った事が無かったからマルボロだけでこんなに種類があってメビウスにもこんなに種類があってラークにもこんなに種類がある事を知らなかった。
なのにお客さんは「セッタ」とか「マイセン」とか「マルメラ」とか聞いた事のない略語を使う。「アカマル」と言われた時にラッキーストライクを手に取った僕を見て店長に「わからなかったら番号で聞いて!」と言われそうするようにした。それからだいぶ仕事は楽になった。それ以外はどうにかこなす事は出来た。


仕事をしながら家事を覚えることは出来なかったから家事はほとんど放棄した。
掃除と料理は諦めた。料理はカップ麺やパンや総菜を買うなどで誤魔化して接客業だからと洗濯だけは母の残していった全自動洗濯機に突っ込んで回していた。乾燥機迄ついている高級品だったのが幸いだった。家はどんどんゴミ屋敷になっていった。

1ヶ月の試用期間が終わり太ったハゲ頭の店長から「仕事は覚えて来たみたいだね、じゃあ本採用という事で来月から夜勤できる?」と言われた。僕が覚えてきたのは日勤の仕事だ。夜勤の仕事なんてやった事がないし、夜勤は一人でやっていると先輩から聞いていた。
僕がまごまごしていると
「今足りないの夜勤だけなんだよね。他の時間帯足りてるから週1くらいでしか入れないけど・・・夜勤なら週4日くらいで時給も高いけどどうする?」
と頭をテカテカさせながら聞いてくる店長に僕は黙ってうなずく事しか出来なかった。

夜勤の人は僕の他に3人いるらしい。大学生と売れないミュージシャンとしょぼくれたおじさん。その3人に仕事を教えてもらいながら夜勤の仕事も順調に覚えて行った。
夜勤の仕事は意外と楽だった。

22時ごろ出勤して夜の品出しを準夜の人とやる。夜の廃棄をチェックしてフライヤーやホットスナック、肉まんの棚を洗って準夜の人が帰ったら掃除をする。
そうすると時間は夜の2時くらいになるのだがそれから朝の5時までは仕事がない。
郊外のコンビニだし、お客さんはほとんど来ないから朝の5時のパンの納品と新聞の納品まで仕事はない。
数少ない納品を終えるとフライヤーを少しだけ揚げて、肉まんをセットすると6時からの早番の人と交代して仕事は終わる。やる事は日勤より全然少なかった。

大学生が「廃棄は食べちゃダメって言われてます?夜勤はバックヤードで食べてても持って帰ってもなんも言われないんで、やっちゃっていいですよ。」と教えてくれたので毎日の食事も少し豪華になった。

すぐに仕事は覚えて一人で店に立つようになった。ニートを10年やっても社会生活は送れるんだなと少し驚いていた。給料は8万円程度とわずかだったが家賃はないし、食費も抑えれれてるしどうにか社会復帰をしたみたいだ。

困ったのは夜の2~5時の暇な時間だ。この時間はバックヤードでよっぽどじゃなければ好きな事をしていていいらしくて人によってスマホをいじったり寝てたり様々だったのだが一人一人個性のある過ごし方をしている時があった。大学生はレポートを書いていたし、しょぼくれたおじさんはipadで漫画を描いていたし、ミュージシャンは返本になるジャンプをドラムスティックで叩きながらドラムの練習をしていた。僕は何もすることがないし、スマホもどことも連絡も取らない見る専だし、生活は夜型にしたから眠くもない。2~3日考えて読書をすることにした。

楽天市場で「古本小説詰め合わせ100冊セット」というのを買った。
100冊もあれば何ヶ月かは過ごせるだろうし、「オールジャンル」と謳っていたので色々な事も学べるだろう。そう思って軽い気持ちで買った。
届いたのは恋愛小説ばかりだった。30冊くらいは同じ作者だった。
僕は楽天のレビューに☆1をつけて恋愛小説を持て余してしまった。

僕は恋愛というものをしたことがない。中学生の時、隣のクラスの子に告白されてイオンでデートをして手をつないだ翌日に「なんか違った」というふわっとした理由でフラれた。それしか恋愛経験はなかった。
もちろん性経験もない童貞だったけど別にそれでもいいかなとそっちの方は諦めていた。そんな僕は恋愛小説を読むのか・・・

しばらくは手を付けず部屋の片隅に段ボールごと置いていた。しかし3時間何もしないのは本当に暇でどうしようもなくて1週間もすると段ボールからなくなく取り出してバックヤードで読むようになった。

「恋愛ってこうするんだ・・・」

ドキドキするような告白や想いの交差、行き違いやすれ違い、夜の営みへの持ち込み方、男女の考えの差、etc…
知らないことだらけでいつの間にか恋愛小説にのめりこみはじめた。
本に夢中になりすぎて入店ベルに気づかない事もたまに出るようになってきた。さすがにお客さんがいる時はレジに立ってないといけないので入店ベルが鳴るとレジへ立つ。お客さんがうろうろと店内を物色している間、僕は恋愛小説の続きが気になりお客さんが会計を終え退店するとすぐバックヤードに戻り、恋愛小説に戻っていった。1日1冊、多い時は3冊きちんと読んでいた。

ある日入店ベルに気づかないでいると

「ちょっとお!!」と店員を呼ぶ声が聞こえる。
慌てて「申し訳ございません!!」とレジに向かうとハンバーガーのプリントされたパーカーを着た30代くらいのお姉さんがイライラした目で睨んできた。

「セーラム」
聞いた事のない単語を急に言われた。慌てていた僕がえっ?!という顔をしていると

「タバコだよ!!セーラム!!」
と怒鳴りつけてくる。僕はあわあわしながら

「すいません!何番でしょうか!!」
と大きな声で行ってしまう。

ハンバーガーパーカーのお姉さんはタバコ棚をイラついた眼で睨みまわし
「番号ねぇよ!!それ!!」
と電子レンジの上にあるタバコを指さす。
ここにはあまり売れないタバコたちが番号も降られずに並んでいる。わたわたしながら指で追いながらセーラムはどれかと確認する。
「緑の!!」
また怒鳴りつけられどうにか見つけ会計を済ますとハンバーガーパーカーのお姉さんは僕を一瞥睨んでから退店していった。
あんな人もいるしそんなタバコもあるんだな、と思いながら僕はバックヤードに戻っていった。

ハンバーガーパーカーのお姉さんはそれから毎日来るようになった。近くに引っ越してきたのか毎日、夜の3時ごろ来る。ハンバーガーのパーカーは赤と緑の2色があり毛玉が結構ついているところから部屋着のようで毎回それを着ていた。

その人は毎回セーラムを一箱だけ買って帰っていく。他の物を買うことはない。あの時の僕がよほど気に入らなかったのかもう黙ってセーラムを差し出すようになってきた僕のことも睨んでいた。



恋愛小説を読むのは順調でもう半分くらいは読み終えたころ。なんとなく同じ作者ばかりだったから敬遠していた作者に手を出した。もし面白くなかったらこの作者の作品を30冊も読まないといけない。結果は、読んで大正解だった。

どの作品も今まで読んだ本よりもドキドキした。ワクワクした。ズキズキした。
「僕も恋愛がしてみたい」
そんな風に思ったのははじめてだった。風巻るい先生。僕はその人の作品を読みふけった。



ある日の3時。風巻るい先生の本を夢中で読んでいると「おい!!!!」と声がする。かなり大きな声だ。慌ててレジへと飛び出す。
「何回呼んだら来るんだよ!!!」
ハンバーガーパーカーのお姉さんだ。
「すいません!」と頭を下げた所で気づいた。僕は本を持ってそのまま飛び出てきてしまった。
ハンバーガーパーカーのお姉さんは本を見て一瞬間を置く。

「あんたそんな本読むんだぁ・・・」
「あ・・・あの・・・」
「そんな本読まなさそうなのにねぇ・・・」
「こ・・・この人の作品のファンで・・・」
「ふーん、まぁいいやセーラム。あとボールペン貸して。」

セーラムの会計を済ますとハンバーガーパーカーのお姉さんはレシートの裏に電話番号を書いた。
「それ、風巻るい大先生の電話番号だから。昼は寝てるみたいだから電話するなら夜ね。」
そう言って去って行った。
僕はきょとんとしながらレシートを見てポケットに入れた。

あの人は風巻るい先生のなんなんだろう・・・電話番号を知っている・・・?悪戯かな・・・?でも本当に風巻るい先生の電話番号かも知れないし・・・
そんなもやもやを抱えて勤務を終えて退勤をする。電話をしようか悩む。いや悪戯に決まっている。そうだ非通知出かけてみよう。それならお互い悪戯って事で済む。

昼は電話をかけるなという忠告は受けたので夜の22時ごろ非通知で電話をかけてみる。
コールするが出ない。やっぱり悪戯だったのだろう。そう思って電話を切ろうとすると
「だぁれ?」と女の人が出た。もしかすると・・・
「あ、あの、か、風巻るい先生ですか?!」
女の人は少し黙ってから「ファミリーマートの子?」と聞いてくる。
なんで勤務先を知っているんだろう。もしかして・・・
「セーラムの人ですか?」と尋ねる。
「そうだよ、私が風巻るい大先生だよ」
なんだ悪戯か。あの人が風巻るい先生なわけがない。ため息をついてると
「ねぇ、『渦の中のカメレオンたち』どうだった?あれ、最後の方気に入ってないんだよね。最後のセリフだけは好きなんだけど。『ねぇ、あなたに溶け込ませて』ってやつ。あのセリフだけ思いついて書いたんだよねあれ。」

『渦の中のカメレオンたち』、昨日僕が読んでいた本だ。確かにそのセリフで終わっていたし最後の方は風巻るい先生にしてはちょっとだるい感じだった。でもそれが最後のセリフの伏線になっていてすべて巻き返す展開だった。もしかすると本当にこの人は・・・

「ねぇ、あんたドーテーでしょ。」
ドキリとすることを急に言われた。

「匂いでわかるよ、こう見えて恋愛小説家だからね。ところで今、ドーテーと恋愛しないといけないんだよ。次の題材でさ。嫌じゃなければデートでもしようよ。詳しくは今日タバコ買いに行くとき話すから。」
「あ、あの僕今日休みで・・・」
僕は驚きやらなんやらで、うっかり口を滑らす。

「あ、そうなの。じゃあ1時間後に露手駅来れる?」
「え・・・行けますけど・・・」
「じゃ待ってるわ。」
そういうと風巻るい先生を名乗るハンバーガーパーカーのお姉さんは電話を切った。
本当に風巻るい先生なのだろうか?ドキドキする。あの風巻るい先生と・・・?デート・・・???
もし違っても僕は大人になってからはじめてのデートをする。なんだろうこの感覚。
わからない感情だった。僕は露手駅に行く事にした。途中、コンビニでセーラムを一箱買って。

ああ、社会ってこんなにドキドキする事があるんだ。
働いた方が勝ち、そんな気で勝ち誇りながらママチャリのペダルをこいだ。

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