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【月便#12】切実と純粋と逸脱と

2018年、まだ東京に暮らしていた頃、私はあるアートの講座に通っていた。アーツ千代田3331で開かれていたその講座は、同施設の統括ディレクターでもあるアーティスト、中村政人氏が主宰していたもので、各回ではアートにまつわる分野の第一線で活躍する方々が講師として呼ばれ、私はアート素人の聴講生ながら、ホワイトキューブの在り方や批評の視点、コミュニティデザインがいかにしてつくられるか、インベスター(投資者)のアートに対しての考え方などについて、学ぶことができた。

ある回のこと。その日は、2020年に予定されていた東京ビエンナーレの企画展示(という表現が合っているかは分からないが)を前に、ビエンナーレの主宰でもある中村氏が受講生に向けて直接講義をしてくれた。これまでの東京をめぐる現代アートの変遷を説明しながら、中村氏はおおむね「アートは社会に近づいていく」というような主旨の話を続けた。

アートは社会に近づいていく――。

それまで現代アートやアート業界特有の閉そく感に少しだけうんざりしていた私は、その言葉で自分の心がみるみる潤っていくのを感じていた。そう、アートはアートの中だけでは生き延びれないし、社会課題は課題だけを見つめていても解決できない。融解だ。これからはアートや社会や福祉やあらゆる分野が境界線を超えて、溶け合う時代なんだ。そう強く確信した。

企画展示の中には、コミュニティデザインで有名な山崎亮氏の作品もあった。詳しくは覚えていないが、いらなくなった衣類を集めて、フリーマーケット的なことを起こそう、というものだったと記憶している(本当にざっくりでごめんなさい)。もともと古着が好きで、デンマーク滞在時にセカンドハンドショップというものの素晴らしさを知っていた私は、思わず飛びついた。ヨーロッパでは赤十字が運営している非営利的な取り組みだが、こうやってアートの領域で表現されることが面白い、新しいものをつくって流通させなくとも、地方にいながらクリエイティブに生活を楽しめる可能性がここにあるのではないかなど、緊張と喜びとで声を震わせながら話した。中村氏は私の話を「そうなんだよ」と頷きながら聞いてくれた。

一通りの展示の説明が終わり、質問の時間になった時、私は思い切って中村氏に質問を投げかけてみた。福島でゲストハウスをつくりたいと思っている。そしてそれは「みんなでつくる」をテーマにしたい。なぜならば、「人は一人では生きていけない」というのが震災後に学んだ一番大切なことだから。だけど実際のアウトプットとなると、「みんな」の力を一緒くたにしたところで、良いものができるとは思わない。作品をつくる時、この「みんなの力を合わせる」と「いいものをつくる」の折り合いををどのようにつけたらいいのか、と。
こんなに上手く(ここでも上手く書けているとは思わないが)説明できたわけではなかったが、アート素人の私のつたない話を聞きながら、中村氏はこう言った。

「きみのゲストハウスプロジェクトには、切実性と純粋性がある。あとは逸脱することができれば、それはアートになるだろう」

質問への具体的な答えではなかったけれど、それを言われたとき、私はものすごく嬉しかった。通じた。自分の言葉が、目の前の、しかもアーティストに。そのあと彼は、他の受講生に向かってこう続けた。
「きみたちもゲストハウスやればいいんじゃない?」
周りの受講生は迷惑そうに下を向いていた。

逸脱。私のこれは逸脱すれば、アートになる。
別にアーティストになりたいわけじゃない。
ただ、必死に向き合っているクリエイションのこの先に、何があるのかを知りたいのだ。馬鹿みたいに真剣に、絶対に妥協せず、自分に嘘つくことなくつくり続けた先に、何があるのか。

きっと中村氏はこんな出来事を覚えていないだろう。でも私はこの一言があるから、冷静に自分の歩んできた道のりを振り返ることができる。そして、思う。ああやってきて良かったと。誰に理解されなくとも、馬鹿にされようとも、私は自分の道を進んできて良かったと。きっとこのpathこそが純粋性の表れだし、私は私のやり方でしかできないんです、そうするしかないんです、という逃れようのない衝動が切実性なのかもしれないと感じている。
あとは逸脱。逸脱とは何か。とんと検討もつかない。だけどゲストハウスをオープンさせ、公にした今、この場がどんな風に育って、自ら歩みだすのかをちゃんと見守りたいと思う。その先に逸脱なるものが表れるのかもしれないと、今は信じていたいのだ。

25JUN2021
guesthouse Nafsha
Owner Misato


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