風の音と、心の音~「聞こえないこと」の思索と物語
難聴児医療・教育界の92歳の長老、田中美郷先生が教えてくれたこと④
初回のこのシリーズでは、半世紀にわたり、医師でありながら、そのワクを超えて難聴児の療育に携わってこられた田中美郷(よしさと)先生の思いや、そのベースとなった哲学に迫ります。
▼「思考の道具としての言語を身につけさせたい」
田中先生は、信州大学医学部付属病院耳鼻科で診療に当たられていた松本時代、その後、東京の北区十条にある帝京大学医学部附属病院耳鼻科で診療を担当された帝京時代を通して、難聴乳幼児の両親向けにホームトレーニング・プログラムを実施されました。
ホームトレーニングのモットーとするところは「言語力を豊かに育てること」。
田中先生が、基本理念として掲げられたのが、「言語とは思考の道具である」という哲学でした。
もちろん「コミュニケーションの手段」としての言語の役割は欠かせないものです。
しかし、日常会話ができたら、それでよしとするのでは、本当の意味で言語を身につけたことにはならない。
言葉にはさまざまな意味があり、言葉にまつわる情景や記憶があります。言葉を使って思考することで、考えが深まり、自分を客観視することもできるようになります。
抽象概念や、見たこともない世界までも類推し、知識として自分のものにできるのです。
そして第3回でもお話したように、「ものには名前がある」と気づくことから、「言葉とは意味である」という理解がスタートするのですから、ホームトレーニングでは、まずそこをクリアすることを目指します。
『聴覚障碍害児早期発見─精査・診断─早期療育/教育支援に関する実験研究』というご自身の論文の中で、田中先生はこう述べておられます。
▼参考にするのは、聴こえる子どもの言語発達過程
田中先生は「難聴乳幼児の療育」をご自身の研究テーマとして、ホームトレーニングに取り組まれました。
研究をスタートするにあたり前提とされたのは、「言葉の発達は、難聴の程度が異なっても、視覚を通して学ぶのでも(手話)、あるいはヘレン・ケラーのように指の形をなぞって触覚で覚えた場合も、聞こえる子どものそれと変わりない」という考え方です。
そして、「補聴器をつけ、そこで生かされる聴力を活用して言葉の発達を促すためには、聴こえる子どもの言葉の発達を参考にすればよい」という仮説を立て、まずは聴こえる子どもの言語の発達を研究されました。
聴こえる子どもの言語発達については、研究論文もデータもすでにしっかりしたものがありました。
またご自身の長男の言語発達過程を、…とくに「物には名前がある」と発見するにいたる過程をていねいに観察し、言葉の発達に対する理解を深められていきました。
▼ホームトレーニング・プログラム
ホームトレーニングは、毎週1回、全体で8回受講するプログラムです。(回数は、時代によって、少し変化があったようです。)
いずれも、病院の会議室等を借り、両親講座として実施されました。(毎回40名ほどの両親が参加し、会議室はすし詰め状態でした。)
また、1~8回を実施したあと、次はまた第1回に戻って講座を始めるというサイクルを取っておられました。
診察と検査により、難聴であると診断された乳幼児の両親は随時、ホームトレーニング・プログラムに参加することになります。途中の回から参加する場合も多いわけですが、そういう人たちは、8回目が終ってから、そのまま次のサイクルの初回から途中までを受講するというやり方でした。
ちなみに「ろう教育」は年代によって大きく異なりますが、田中先生がホームトレーニングを始められた頃は、改良され性能がよくなった補聴器を付け、聴能訓練を行いながら、手話は一切使わず、口話のみで教育する「聴覚口話法」が使われていました。
当時、難聴児の多くの親が望んだのは、インテグレーションをし、「聞こえと言葉の教室」と呼ばれる難聴学級に通級しながら、普通小学校で学ぶことです。
何度もいいますが、難聴乳幼児にたいする療育は、公的にも私的にも手つかずの領域でした。田中先生の試みられたホームトレーニングは、そんな中で未来につながる希望の光でした。
▼「大丈夫です」という言葉に導かれて
ホームトレーニングでは、まず「難聴児の言葉をどう育てるか」について知識が語られました。その後、両親が提出した日記を、田中先生が部分、部分読み上げながらアドバイスをするという形が取られました。
両親は、「補聴器をつけた子どもが示す音への反応」「子どもとのやりとり」「言葉を獲得していく、ささやかでもリアルなシーン」などを記録するよう求められました。
また当然ながら、補聴器をつけ始めた子どもについて、両親は悩ましく、わからないことばかりですから、質疑応答に多くの時間があてられました。
真剣な面持ちで質問する両親に対して、田中先生が「大丈夫ですよ」と頷かれるシーンがよく見られました。
「ほー、〇〇が言えるようになったんですか。素晴らしいですね」と温かい笑顔で、やさしくほめておられるシーンも。
わが子が難聴と診断された両親は、「何とか言葉をつかって話せる子どもに育てたい」と張り詰めた気持ちでホームトレーニングを受講するのですが、そこに流れる時間は「聴こえないわが子を、どう育てていけばいいのか」というとっかかりを見つけ、希望を持つことができた親同士、励みに満ちた時間でもありました。