風の音と、心の音~「聞こえないこと」の思索と物語
難聴児医療・教育界の93歳の長老、田中美郷先生が教えてくれたこと⑧
初回のこのシリーズでは、半世紀にわたり、医師でありながら、そのワクを超えて難聴児の療育に携わってこられた田中美郷(よしさと)先生の思いや、そのベースとなった哲学に迫ります。
最終回となる今回は、93歳を迎えられた田中先生の「長い時間を経て、いま考えていること」についてお伝えします。
2020年に田中美郷教育研究所から発行された『聴覚障碍児早期発見─精査・診断─早期療育/教育支援に関する実践研究』という論文集に、田中先生のこのような文章があります。
▼田中先生の“いささか壮大な夢”とは?
帝京大学病院耳鼻咽喉科に着任されたときに田中先生が抱かれた “いささか壮大な夢”…その夢は、ST(言語聴覚士)の先生方の難聴児療育の理想に燃えた熱心なご指導ともあいまって、難聴児・者を取り巻く社会に大きな影響を及ぼしました。
難聴児の親や本人たちは、田中先生のその夢に勇気を与えられ、迷わず前を向いて進んでいくことができたのです。
帝京病院耳鼻科言語室で行われていた、家庭指導と絵日記を中心とし、早期に対話と読み書きの力を育む個人指導や、コミュニケーションを学ぶためのグループ指導。
毎年開催されていたクリスマス会や、関東周辺や山梨県、長野県などの自然豊かな山麓で行われた夏期合宿。(合宿では、親たちが夜を徹して育児や子どもの将来を語り合うほか、毎年「歯っかけの権三が山に隠した宝を探せ」などの大掛かりなゲームを仕掛けるなど、ダイナミックな体験学習が企画されました。)
さらに合宿文集や親たちが子どもに役立ったと思う本を紹介する冊子発行など。
帝京病院の言語指導終了後には、言語室と親の会との連携活動として、学齢期の仲間の新聞つくり、社会で活躍する難聴青年との交流、当時社会的発信をされていた中途失聴難聴者協会・全日本ろうあ連盟の難聴・ろう成人の方々の講演会。
都内の難聴・ろう児との交流や土曜日の手話教室、当時子どもの関心が高いサッカークラブなど・・・ 田中先生、廣田栄子先生他STの先生方のご指導のもと、多彩な活動が繰り広げられました。
それらは、難聴の子どもたちに豊かな教育環境を整えようと、最善を尽くしての活動でした。
普通学校にインテグレーションした難聴の子供たちのバックアップ体制は、その当時に考えられる限りの打ち手を実践したものでした。
廣田先生によると、「言語室の先生方は、昔から難聴者・ろう者の方々との交流や活動支援で共有してきたことや、母と子の教室他、先駆的療育やろう教育、米国の家庭教育と幅広く学び、豊かで先駆的な言語指導を模索してきました。
聴覚口話指導をよりよく展開し共生社会で生きる力をもち、聴覚障害をもつ当事者として道を拓いていく想像力豊かな子どもたちの育ちをめざして、言語指導やお母さま方との連携活動を開発してきました」とおっしゃっています。
▼手話を併用するべきではないか…
さて、退職後に、田中美郷研究所を開設したころから、田中先生は「自分が最初に考えていたことには間違いがあった」ことに気づいたとおっしゃっています。
田中先生がホームトレーニングを始められた当初、世界的な潮流として、ろう教育は聴覚口話法で一貫していました。つまり、手話は使わない。聴能教育を徹底させるために、手話を使うことは禁止されていました。
田中先生のホームトレーニングでも、それは同じでした。
ところが、その当時に乳幼児だった重い難聴の子どもたちが成長し、大学を卒業して自身で田中先生の外来を訪れるようになると、本人の口から「子どものころは辛かった」という思いが聞かれるようになりました。
「難聴の軽い子どもたちは口話一本やりでもよかったのです。しかし、100デシベルとか115デシベルという難聴の重い子どもにとっては、口話のみというのは厳しいことだったようです。
それでも、潜在能力があるから、やれば伸びてきます。
しかし親が一所懸命にやるということは、子どもにしてみれば苦労の連続だったのかもしれません。
それが原因で親子関係が悪くなるケースもけっこう見られました。幸いにして、帝京の言語室で指導を受けた子どもたちからは、そういう話は出ていませんけれど」と田中先生。
ただ、帝京病院耳鼻科言語室で直接言語指導を受けた子どもたちの中には、難聴の重い子どももけっこういましたが、その中の一人、リナちゃんという利発な女の子は、高校進学時に自ら、ろう学校に行く選択をしました。
インテグレーションをして「聴こえとことばの教室」という難聴学級に通いながら、普通小学校、中学校と進んだ後の選択でした。
リナちゃんはろう学校の専攻科に進んだときに、難聴の女性が主人公の映画『アイ・ラヴ・ユー』※に脇役として出演したことがあります。
田中先生はその映画を見て、原作(『アイ・ラヴ・ユー』岡崎由紀子著/ひくまの出版)も読まれて、「主人公が家庭でも、学校でもコミュニケーションに難渋し、常に孤独と疎外感でさいなまれて生きてきたこと、そしてろう学校に入り、そこで手話を覚えてはじめて精神的に救われた」という内容に心を痛められたそうです。
もしかしたら、難聴の重い子どもたちは、口話一辺倒の教育では、多かれ少なかれそういう思いをしてきたかもしれない。
ろう学校進学を選んだリナちゃんも、そのような思いをしていたのかも…?
こうしたいきさつもあり、田中先生はホームトレーニングでの話に変更を加えられました。
つまり、手話を最初から取り入れて、親たちにも口話と同時に手話や指文字も使うように指導されるようになったということです。
幼児から手話を取り入れるということは、ろう者の家庭での育て方でろう学校では始めていましたが、難聴児指導の世界では、思いきった選択の提言でした。
20世紀が終わりを迎え、全世界が21世紀に入ろうとする頃の話です。
▼トップダウン方式
田中先生は紆余曲折を経て考えられた方法を「トップダウン方式」と名付けられました。
その内容について、こう説明しておられます。
「目標とするところは言語力を豊かに育てること。そのためにどういう手段を講じたらいいかということです。
難聴があれば、その程度いかんに関わらず、耳から入ってくる情報は限定されます。
その部分をどうやって穴埋めするか、補って日本語を豊かに育てるか、というところで日本語対応手話を活用すれば、非常に合理的だと考えるに至ったわけです。
今は難聴がある限り、聴こえない部分というのは視覚的手段で補ったほうがいいと思っています。子どももそのほうがラクでしょう。
補聴器の性能も格段に良くなってきているので、まずは補聴器をつけて聴能の可能性を探りますし、同時に日本語対応手話を並行して使うことで、よりフレキシブルな指導を行うのです」
「ただ難聴が軽い子どもは、耳で意味がわかってくると、手話は使わなくなります。補聴器だけでコミュニケーションを取るようになります。自然にそうなってくる。
自分で言葉を言えるようになったあたりで、手話は消えていきます。子ども自身がそういう選択をするわけですから、それを尊重すればいいと思っています。
逆に重い難聴の子どもは手話に比重を置くようになる。
つまり、自分の聴力に合わせて、子どもたちは使いたい方を使っていくというのが、僕が考えるトップダウン方式です」
▼93歳のいまも現役で中枢性難聴児の診療を担当
今年の3月に93歳になられた田中先生は、いまも現役の医師として、週一回、御茶ノ水の神尾記念病院に通っています。
「いま私が診ているのは、ランドクレフナー症候群で中枢性難聴の5歳の女の子です。
中枢性の難聴というのは、音は聞こえるけれど明瞭度がないという特色があります。聴力検査をやると、音が聴こえますから、結果は“正常”と出ます。そして『正常だから何もしなくていい』といわれるわけです」
ところが言葉は出てこないし、ご両親はそれでは納得できないということで、小児科医の先生を経て、過去にランドクレフナー症候群についても研究しておられた田中先生の元に、送り込まれてきました。
「その子は補聴器も人工内耳も使えません。ただ手話をやれば言語が獲得できるはず。
ということで、お母さんは私が伝えた通りに手話を覚え、手話で言葉を教えるようになりました。その結果、子どもは言語を獲得しはじめ、情緒も安定したのです」
「賢い親御さんで熱心にやっておられるし、その子も利発ですから、高等教育を受けられるようになると思います。ただし、僕はそこまで生きておれないから。
成長する姿を見守ってあげたいですけれどね」
そう、田中先生はしみじみ語っておられました。
本当に長い時間を、難聴児の療育に捧げてこられた田中先生は、いまも思いやり深く難聴児の現状と未来について語られます。
このシリーズを終えるにあたり、田中先生にご指導を受けたすべての両親と子どもたちともども、深い感謝の思いを捧げたいと思います。
▼リナちゃんのお母さんの話
最後にリナちゃんのお母さんから「田中先生が心を痛められたこと」についてお話を伺ったので、付け加えさせていただきます。
「確かにリナはろう学校高等部に入学してから、のびのびと学校生活を楽しんだようです。女の子の友だち何人かで手話で話す女子トークは、本当に楽しかったみたいです。
でも田中先生と帝京言語室の先生方には、感謝の思いしかありません。
リナは、帝京の言語室で口話を学び、その年齢にしては高い言語力を身につけた後に、インテグレーションをして普通小学校・中学校と進みました。それはとても大切で必要な経験でした。
ろう学校に行ったことも良かった。
その2つのことがベースとなって、いまのリナがあると思います。
大人になり、企業に勤めながら子育てしている姿を見ていると、社会適応という点では、帝京でお世話になっていた頃の経験が生きているのを実感します。確かな言語力を身につけたからこそ、こんなふうに自由に将来を描けるのだと思います。おかげで、聴こえる人たちと気持ちが通じ合えるコミュニケーション力も身につきました。
あの頃の子どもたちは、間違いなくちゃんと育っています。それぞれに課題を抱えていても、良い大人になりました。
帝京病院のホームトレーニングで田中先生に『大丈夫、しゃべれるようになりますから』と言っていただいたひと言が、どんなに支えとなり希望になってきたことか。
みんなそうです。私たちの感謝の気持ちを、ぜひ受け取っていただけたらと思います」