日本神話と比較神話学 第二十回 虚空/葦の芽/遊ぶ魚 天界・空界・地界、女神ヌト・父神シュウ・男神ゲブ
天地の開闢
日本神話の天地開闢において、最初に現れる神は、いかなる神格であるか。
この問いかけに対する回答はそれほど自明ではない。
日本の神話は古事記・日本書紀(併せて記紀ともいう)という史書の神代(神々の時代)に関する記述を原典(基礎的な典拠)としており、日本神話はまた、記紀神話ともよばれる。記紀神話と呼ぶときには古風土記・新撰姓氏録・延喜式祝詞・古語拾遺・先代旧事本紀などの周辺文献(国学では神典と称される)が含まれることが多い。各神社の縁起・琉球神話・中世神話(中世の史料に現れる日本神話)・その他民間伝承は神道的信仰ではあっても記紀神話には含まれないが、文脈によっては日本神話として論じられる。
日本神話を記紀神話の範囲に限った場合でも、断片的な記述を含めて、その内容は多様である。(日本書紀では本文以外に「一書」とされる複数の異伝を掲載している)
古事記本文の冒頭では、最初に出現した神はアメノミナカヌシ(天の御中主の神)であるとされる。
一方、日本書紀の本文ではクニノトコタチの神が最初に出現する。
クニノトコタチ(國常立の尊)は古事記では五柱の別天つ神の後に現れる神であるが、日本書紀・本文では最初に出現する神となっている。日本書記の一書(異伝)ではさらに別の神格が原初神(最初に出現する神格)とされている。
以上のように記紀神話の原初神を確定することは困難である以前に、そもそも伝承によって異なることを確認した。ゆえに、冒頭での問いは日本神話での天地開闢において、天地はいかにして生成されたかというかたちで問い直されねばならないだろう。
天地の形成
もろもろの記紀神話の天地開闢の描写には共通点がうかがえる。天地開闢の際、古事記では「國(くに)稚(わか)く、浮かべる脂の如くして水母(くらげ)なす漂へる時に、葦牙(あしかび)のごと萠え騰がる物に因りて成りませる神・・・」、日本書紀・本文では「洲壌(くに)浮び漂いて、譬えば、猶、遊魚の、水上に浮かべるが如し。時に天地の中に、一物生ぜり。状ち葦牙(あしかび)の如し。更ち化して神となる。」とされる。
いずれも世界の始まりを「大地がまだ固定されていなかったとき、葦牙(水辺に生えるイネ科の多年草である葦の芽とされる)のように萌え上がる(芽吹く)ものがあり、そこから神々が生まれた」と描写している。葦芽が大地から生じたようにもとれるが、大地とは別に虚空から生じた描写にも見える。
以下は古事記および日本書紀の天地開闢の段をまとめた表である。たとえば、「紀・一書・第二」は天地開闢の際、浮脂のような大地から葦牙が生じ(物生レリ)、葦牙からウマシアシカビヒコジ・クニノソコタチの二柱の神格が生じたという意味である。
さて、表を確認すると、いくつかの点が確認ができる。
まず、高天原とアメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒの三柱との関連性である。この三柱が出現するのは古事記と日本書紀・一書・第四であるが、いずれも出現場所は高天原であり、さらに天地開闢において高天原からこの三柱以外の神格が現れることもない。
次に葦牙から生じる神格であるが、クニノトコタチ(クニノソコタチと同一神格と考えられる)の系統(クニノトコタチ・クニノサヅチ・トヨクムヌ)(本文、一書第一、第五)とウマシアシカビヒコジの系統(ウマシアシカビヒコジ・アメノトコタチ)(古事記、一書・第六)およびクニノトコタチとウマシアシカビヒコジのペア(一書・第二)に分かれている。
第三に、浮脂のような大地からは葦牙(一書・第二、第五)またはクニノトコタチ(一書・第六)が生じている。前者の場合は「浮脂→葦牙→原初の神格」という流れになる。
さらに、紀・一書・第六の描写では葦牙も、浮脂もそれぞれ別々に空中に発生している。(他の伝承でも「浮脂のような大地」が水上を漂っていたとは描写されていない)
さて、以上より天地開闢の神話が描く日本神話の世界構造について、次のように考えられる。まず空っぽな高天原が存在している。そしてその虚空に葦牙のような一物、そして浮脂のような大地が発生する。さらにそのそれぞれの場所(高天原・葦牙・浮脂)に神々が生じる。
表にまとめると以下のようになるだろう。
このような三つに分かれた垂直的な多層世界構造はインド神話に現れる天界・空界・地界の区別(三界)に対応していると思われる。
天地の成長
古代インドの神話的讃歌によれば、天界・空界・地界の三界は祭儀によって分断された巨人プルシャの体より、神々や万物とともに生じた。
インドの民族宗教ヒンドゥー教の主神ヴィシュヌ神はこの天界・空界・地界を三歩でまたいだという。
類似の世界構造としては古代エジプトのヘリオポリス(ギリシア語で「太陽の街」)九柱神の神話が挙げられる。
天空の女神ヌトとその夫の大地の神ゲブの間に大気の神シュウが入り込むというのは天界・空界・地界の三層構造を示している。神話ではこの事情は以下のように太陽神ラーの地上の統治者からの退位(天と地の分離)によって語られている。
インドネシア・スマトラ島南部のレジャング族の神話はより、日本神話に近い。
レジャング族の神話の「虚無・(足跡のように小さい)大地・(木の葉ほどの大きさの)天」は日本神話の「高天原・(浮脂のような)大地・(葦牙のごとく萌えあがる)一物」に対応するだろう。レジャング族の神話では大地や天は拡大・成長する。日本神話では明示されていないが、「水母」「遊魚」とされる大地や「葦の芽」のような天はそこから成長するものだと思われる。
天地の構造
ここまで日本神話の天地開闢神話を他地域との神話との比較により考察してきた。天上世界が垂直的な多層性を持つという世界観(宇宙観)は各地に見られる。シベリアの各地域の神話では世界は上中下の三世界構造がしばしばみられる。中でもネネツ族・セリクプ族ではさらに天界が七層、地下界も氷の七層に分かれている。またゲルマン神話では世界樹に貫かれた九層の世界が語られる。アマゾンのボロロ族は天の階層が十層に及ぶと信じている。仏教やキリスト教でも地下から天上まで多層的な宇宙的な世界観が存在している。
日本神話では、高天原(天界)という最も空虚な空間から、虚空から出現する葦牙(空界)、浮脂(地界)というように、階層を下るごとに世界は形象性(物質性)を増していく。
しかし、開闢神話の後に現れてくる、葦原中つ国(地上世界)や黄泉国・根の国(地下世界)、常世国(異界)といった様々な世界と、この三層的世界観の関係は判然としない。
国学者の平田篤胤は著書『霊の真柱』で、国学者・服部中庸の図解(『三大考』)やヨーロッパの天文学を参照しつつ、葦牙(の如き一物)を、産霊(ムスヒ・生成エネルギー)の神々(タカミムスヒ・カミムスヒ)が生み出した根源物質ととらえ、そこから天(太陽)・地(地球)・泉(黄泉。月)の三世界(三つの天体)が分離していったと論じている。(篤胤の黄泉国・根の国および月の同一視の背後には根の国の主宰神・スサノオと夜の食す国=月の主宰神・ツクヨミの同一神説がある。)
篤胤の議論は日本神話の天地の開闢(生成)と天地の構造(分離)に一貫した理解を与えている点で啓発的である。
本論では、しかし、天地開闢と日本神話の宇宙観に関してはこれ以上考察(天地開闢において、天地はいかに生成されたか)を進めることが難しい。タカミムスヒ・カミムスヒの二柱を除いて、神々の父母たるイザナミ・イザナギの二柱より前の世代の神々は神話に姿を現すことがなく、それらの神々に対しては小論で採用している比較神話学的な手法の適用による考察が困難であるためである。
暫定的な結論として、篤胤およびその後継者たちが行ったように、より神道神学的・思弁哲学的な考察の必要性を示唆して、小論を閉じることとしたい。
参考文献
工事中。