可能性を広げる思考と言葉の使い方。判断は周りがするもの。

 とある友人と話していた時に、思ったことです。「~だろう」と「~なのかもしれない」という言葉の違いって、とても大きいなと。正確には言葉遣いというよりも考え方になるかと思いますが、この違いはとても大きいと思いました。

 何が大きいかというと、物事の可能性を広げるのか狭めるのかの違いにつながるような気がします。気がするというか、今のところ確信しています。

 何か物事を考える時、思考実験をするような時、自分の中の知識や経験をもとに最初は考えると思います。そして頭の中で答えが出てしまう時、それって本当にその結果になるのかということです。

 仕事などで誰かと何かをするとき、会議や打ち合わせなどで発言をするとき、ある程度自分の中で結論のようなものをもって発言をすると思います。その時に頭で考えていること、その思考の中にこそ、可能性を広げるアイデアがあることが多いのではないかと思います。

 自分の考えをまとめる時、自分だけの知識・経験で結論づけてしまい、それを言葉として外に出さない。自己完結してしまう。この自己完結こそ、物事の可能性を狭めているのだと思いました。

 そしてその自己完結をしてしまう要因は、自己保身、自分を守りたいプライドなのかなと思います。

 自分の中に、めちゃくちゃバカバカしい現実味の無い発想があったとして、それを外に出して誰かにぶつけてみる、それを受けた誰かがその発想をもとに新しい発想が広がる。だけれども、そのバカバカしいアイデアを外に出すことで、周りから馬鹿にされ批判されると思えばやっぱりそれは嫌だからアイデアを外に出すのをやめてしまう。

 だから、自分が馬鹿にされるとかどんなふうに思われるとか気にせず、恐れずどんな発想でも外に出してみる。私の周りにいる尊敬できる人は、結構バカバカしいアイデアを口にすることがあります。それでも、そのバカバカしいと思える発言から広がるアイデアによって、多くの課題を乗り越えてきたことも事実です。

 自己保身というと大げさかもしれないけれど、自分を守る殻を捨てることができた時、その時こそが自分を成長させることができた時なのかなと思います。

 異口同音で昔から同じことが言われていますが、その根本には自分自身の殻を破るという、痛みを伴うものだから実行できる人が少なく、それが故に昔から言われ続け、異口同音に同じことが語られる。

 「常識を壊せ」「自分をさらけ出せ」「常識に捕らわれるな」それを実行するカギは自分の覚悟にあるのかなと思いました。それを自分の中から外に出した結果、良いか悪いかを判断するのは自分ではありません。それを受け止める他者が判断することです。政治家は歴史が評価する、と言うのと似たような事かなと思いました。


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