数学という科目
学生時代に、数学について思ってたこと。
国語や英語、社会歴史、化学体育保健など色々ある中で
私にとって数学は好きでも嫌いでもない、
心配したり、考える必要のない科目だった。
なぜかというと、例えば数学には
一次関数、とか図形の面積、とか
とても分かり易く単元にわかれていて
その単元にはいくつかの公式があるけれど
その公式さえ完璧に覚えていれば
ほぼほぼその単元について心配する必要がないから。
各々の公式を使えるようにまでに時間がかかるかもしれないが
理解できているか出来ていないかも
明確にわかるから。
公式がどうしてそうなるか考えなくていいし
(数学者ではないし、一度聞いたことがある気もするけど
考えなくて良いと言われすんなり聞き入れた)
逆にいうとその公式を一切使わずに解く問題が存在しないので
無理矢理にでも知ってる公式を当てはめればよかった。
そうした理由で数学のテストはいつも80点以上だった。
もちろん学校の難しさによるけれど、
大体1、2問はわざと難しく設定して100点を取れないようにするので
こんなもんだなという印象。
そして30歳を超えた今、数学のテストで
よく思い出すことがあってこれを書いている。
数学の問題はほぼ100%、
計算過程(証明)と解を書くことが必要だったと思うんだけど
上述のようなわざと難解に作ってある問題を読んだ時、
なぜか読んだ瞬間に
答えの数字が2つ、3つ一瞬で浮かんだ。
天才じゃないので一瞬で計算したわけじゃなくて、
感覚的にこの辺りの数字のどっちがだろうなって。
めんどくさがりで
答えにすぐ辿り着きたい性格の私はまず
その2、3つの答えが正しいと仮定して
答えを計算式を当てはめる計算をした。
そしたら思った通り、1つが確実な正解だった。
違うやり方で計算しても
確実にその答えが正解だと確信できた。
ただ、それが答えの数字と仮定して
解から証明する計算式は作れても、
どうやってその数字に辿りついたのかを説明する計算が
どうしてもできなかった。
知ってる全ての公式を時間の限り当てはめたが
ぽっと浮かんだ数字の前提がなく
なんで最初にその式?となるような証明しかできなかった。
まあでも、答えは絶対合ってるし
正解でしょ、まあいいやと思って時間切れで
そのテストは終わった。
だが後日返ってきたそのテストの
その問題には罰がついてあった。
解の隣に小さく◯がついてるが
基本的には✖️で部分点みたいなのもなかった。
私には理解できなかったので先生に聞きに行った。
(一通りの先生が嫌いだったので、
男か女の先生かも覚えてないくらい興味も関わりもなかった中)
先生はあっさり、
「証明できてないでしょ、だから考えたことにはならないし
答えが合ってるかは関係ない」
でも答え合ってるから◯ついてますよね?
答えを出すための計算じゃないんですか?
「理解ができているかを確認するテストだから
式がないと◯にはできない」と。
その時は、その問答で納得して、というか
まあいいやと思ってそのテストに関しては忘れたんだけど。
これってすごい重要な議論じゃないのかなって
大人になった今思う。
正しいプロセスを誰かに証明することが
正しい答えよりも大事?
理由のない正しい答えは悪い?活用できない?
答えが合っているのに
プロセスだけが間違ってる?
もちろん、正しいプロセスが
正しい答えを導き出す、それが美しく
全員を賛同させるに決まってる。
でも、世の中には学問だけでなく
そもそもなんで地球があって人間がいるかもわかってない。
つまりわからないことだらけで。
少なくとも確実に正しいと思える事柄を
理由がわからなくても認めて理解して
頼りにして進んでいくことが
大事なんじゃないかなと思いました。
似たようなエピソードお持ちの方いれば
コメントいただけると嬉しいです^^
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