もうすぐあの人の誕生日
去年、化け物みたいな人に出会った。
Nさんだ。
例えば、ある程度話を適当に聞くことは処世術のように日々をこなす為に自然とやってしまうことだと思う。
うんうん
はいはい
なるほど
へぇ〜
こんな相槌を使いながら、無意識に言葉を流していく。
ふと、あれ?今なんて言ってたっけ?と思っても、まぁいいかもう言葉は遠くに流れてったしなぁって諦める。
本当はそこまで共感できてなくても、あぁわかるって口が先に発声をしていたり、そういうことは日常的にある。
別にいいんだ、わかってなくても言葉がもう流れているし、何より今は軽く流す”空気”だしな。
そんな風に簡単に自分がふんわりと、まぁいっかの毛布にくるまれることを不快としないところがある。
ふわふわだし、心地良いし、その場は流れてもあくまで自分は自分なのだから。
ふわふわの毛布にくるまれたって、何者にも脅かされることのない確固たる芯はいつだって太く堂々と自分の中にあるのだから。
だけど、Nさんは違う。
例えば、私が適当に流した”わかる”に対して、
え?あなたは”わかる”の?とキョトンとした不思議な顔で聞いてくる。
なんとなく無難に答えても、それってどういう意味?私わかんない。と常に100%の自分で挑んでくる。
そこはもう適当に終わらせといたらいいんじゃない?と思ってしまう自分がちょっと恥ずかしく感じてくる。
こんなに毎秒毎秒全力でどうやって生きてこられたんだろう?
私が毛布にくるんだ芯の部分、Nさんは常に剥き出しで生きている。
剥き出しで、痛々しくて、純粋で、雪の結晶みたいに完璧な美しさを持っている。
キョトンとした顔で聞かれたことに、まごついてしまう私。
子供のように真っ直ぐに、それはなんで?なんでそうなるの?と聞いてくる大人。
誤魔化しなんて効くわけがない。
厄介ではあるものの、その剥き出しの生き方はどう見たって潔くて格好いい。
畏れおののき尊敬してしまうと同時にどうしても対比で明らかになってしまう自分の浅はかさ。
これでも忖度をせず不器用にも真っ直ぐ生きてきた”つもり”の自分が、どれだけ浅く薄汚い存在だったのかをまざまざと思い知らさせる。
そんな真っ直ぐな顔で、それってどういう意味?なんて聞かないでくれ。
流れで口から出ただけの意味のない言葉なんだから…。
目の前でキョトンとしているNさんは、これだけ真摯に剥き出しのまま、これまでどうやって生き抜いてきたのだろう。
面白いご縁で、1か月だけ一緒に暮らしただけだけど、Nさんがそこに居るだけで私は常に問いただされているように感じた。
それは辛い日々だった。
あまりに純粋な存在を前に、それを手放しに喜べるほど人間は簡単ではないらしい。
今考えると、何も自分を対比させる必要はなかった。
私は私、NさんはNさん。
Nさんの素晴らしさにただ感動していられればよかった、それぞれのやり方がある、適当に流したっていいのに。
欲張りな私はNさんみたいになりたくなった。
なれるわけがないのにね。
その場に応じだ厚みの毛布を用意できるくらい器用に生きてきたからって、それが汚いわけではないということが、当時の私にはわからなかった。
お別れの時、Nさんから貰った手紙には一言、『ごめんなさい』とあった。
これが何を意味してるのか、ぼんやりとわかる気がする。
彼女の存在が私を辛くさせた、事実がそうだとしても彼女に悟られまいと必死に明るく振る舞ったのに、それさえもお見通しだったのかもしれない。
本当に底の知れない人。
もうすぐ彼女の誕生日で、離れてたって会わなくたって、いつも私の心にいる。
その純粋すぎる存在が今もこの世にあれている、というだけで私は嬉しい。
Nさんは今どこで何をしてるんだろう。
忖度ありありで、器用でお調子者のままの自分で、それでも堂々と。
いつかそんな風にNさんと出会い直せる日が来るような気がしている。