役に立つって何だ?

「それって何の役に立つんですか?」

ノーベル賞を日本人が受賞して、それか化学や物理学だった場合、受賞理由の研究解説のシーンで毎回のように聞かれるこのフレーズ。
ノーベル賞の場合、当時は何の役に立つかわからなかったような基礎研究が、後にこんなに役に立ったから賞をあげるよ!という感じなので、この問いの答えは明確だ。

ただ、現在進行中の基礎研究の多くは、おそらく何の役に立つがわからないだろう。
わからないけど、人がまだ知らない何かの仕組みがわかったらすごいよね、面白いよね、というような、それこそ好奇心で研究が続けられているのだろう。

問題は、何の役に立つか今のところまだわからないものに対して、どのくらい資金が投下されるか?ということだ。

今年のノーベル物理学賞の真鍋さんは、日本出身のアメリカ国籍だ。
過去のノーベル賞でも多いこのパターンだが、日本だとやりたい研究が出来ないことが原因の一つなのは明らかだ。
やりたい研究が出来ない理由もいくつかあろうが、国から十分な資金が投下されないことも大きいだろう。

日本は、何の役に立つかわからないことにお金をかけたがらない。
科学的分野についてはもちろんだが、この問題は科学に留まらず、人文系でも全く同じだと思う。
文系と呼ばれる学問の多くは、修めたところで何の役に立つかわかりにくい。
経済や法律はまだマシだが、私のように専攻が文学というジャンルとなると、その風当たりは惨憺たるものだ。
哲学や史学、民俗学、人類学あたりも似たようなものだろう。

どの学問の学びも、生きていく上でとても役に立つ。
つらい時の自分を慰め、支え、ヒントになる。
にも関わらず、少なくとも今の日本では「役に立つ」=「仕事やお金になる」になってしまっている気がしてならない。

例えば、ただやりたいからと何年も熱心に続けている趣味がある人は「なに目指してるの?」と周りから揶揄された経験はないだろうか?
これも恐らく根底には「役に立つ=お金になること以外は無駄」という考え方によるものだろう。

でも、逆にお金にならなければ無駄だとなぜ言い切れるのだろう?
お金に換算することが価値の全てなら、そもそも人間が生きること自体コスパが悪すぎはしないか?

どこで、何が、どんな価値を生むか。
それがどう評価されるのか。
そんなものは時代によって変わるし、運としか言いようがない。
役に立つかどうかという考え方は、行き過ぎた能力主義のせいなのかもしれない。
そんなことを、マイケル・サンデルと平野啓一郎の対談を見ながら考えていた。

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山内三咲
豊かな人生のために、ファッションのスパイスを。 学びやコーチングで自分の深掘りを。 私の視点が、誰かのヒントになりますように。