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夜明け前

 一人、ソファに座り、このnoteを書いている。

 目の前の薪ストーブの上は、熱が上昇すると回転するファンが回っている。が、カラカラと音がする。回転が遅くなってきた。そろそろ薪を追加しなければならない。

 ラジオを聞いていて気づかなかったけれど、近くの寺で鐘をついているらしい。等間隔の間をおいて、ゴーン、ゴーンと音がする。除夜の鐘だろうか。ときおり、風が強く吹く音も混じる。明日も、きっと寒い。

 2020年12月31日。

 今日を、心細い思いで迎えている人。例年と変わらない心持ちの人。さっさと新年になってほしい人──。わたしの乏しい想像力なんて及ばないほど、筆舌しがたい状況で、夜が明けるのを待つ人もいるだろう。

 「明けない夜は無い」という言葉の前で、希望の道筋を探しながら立ち尽くし、そのまま膝をついて項垂れたままの人は、今日の寝床を見つけられただろうか。

 いつもなら、実家に帰る年末年始。生まれ育った家に戻ったとたんスイッチが完全に切れ、歩くのさえ億劫になる。実家のソファは、いくらでも眠れてしまう。帰省という名の寝正月を、繰り返してきた。

 今年の夏、実家に新しい犬がやってきた。年末年始に会えるかと思っていたけれど、結局会えずじまいだ。

 北海道の我が家には、テレビがない。だから、年末年始のにぎやかな特番も流れない。おせちもお雑煮もない。門松も、しめ飾りも、鏡餅もない。

 いつもと変わらない、名もなきレシピで完成した夕食とコーヒーを準備する。明日、自主開催するイベントに出す商品を作る。合間に英会話、1月に受講するオンライン講座の予約、それだけ。

 いくら寝正月だったとはいえ、年末年始はいい意味でも悪い意味でも“言い訳”になった。

「新年だから」「年が明けたから」。

 今までのことが一気にアーカイブされ、中途半端なことは排除され、まっさらな状態で人生がリスタートするかのような清々しい気持ちになれた。

 でも実際、夜が明けたところで何かが劇的に変化するわけではない。

 「今年のわたし」は「来年のわたし」になったところで、そう簡単に縁を切ってくれない。なまけがちな「今年のわたし」は、夜が明けてもなまけがちなままだし、臆病な「今年のわたし」は、正月を言い訳に臆病でい続けることを諦めてはくれない。

 でも逆にそれ、いいじゃん、と思う。

 いつもと変わらない夜を過ごすから、自分で変えていくしかないのだ。年末だろうが年始だろうが、この夜が明けたらまたいつもと同じ1日が始まる。けっきょく、何かに誘導してもらいながら自分を律していないと、間がもたない。今年は大晦日だとか正月という、分かりやすくて華々しいハレの日を、体感するコンテンツがない。「ここからここまでは今年」と区切る一つの儀式として、帰省だったりお節料理を食べたりするわけだが、今年は物理的な区切りはないから、自分で“節”を作らなくっちゃ。などと、思う。

 だからか大晦日、一人で過ごして思うのは「案外、だいじょうぶ」ということだ。

 わたしは健康で、家族も友人もいて、あたたかい寝床があって……。このフレーズ、今年何度かnoteや自分の日記に繰り返し書いてきた。それくらい、自分の手元にあることを確かめておきたいのだ。いつなくなっても、おかしくないという危機意識が、この一年を通じて増したのかもしれない。

 だから「一人でいることは問題ではない、むしろ一人で生きていけているのは、大丈夫ってことじゃないか」と思う。

 ただ、そろそろ、自分のためだけに生きるのに飽きてきた、というのも正直なところ。

 じゃあ誰かのために、何かのために、はたらきかけるのかというと、まだ対象が明確なわけではない。

 でも、ただの寂しさや不安は、埋め合わせでは解消されない。その場しのぎの埋め合わせは、ますます寂しさや不安をえぐるだけだ。

 「一人でいるのに飽きたから、誰かと生きるのが楽しいのか試してみたい」という好奇心は、“寂しいお化け”になるより、ずっとマシでは? と思えば、まあまあおもしろくなりそうな気もしてくる。

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 生かされた一年だった。

 この夜が明けても、わたしはまだ、生かされ続けるだろう。

 ただ来年は、今年よりほんの少しだけでも、誰かを生かせる人にもなりたいなと思う。

 新年の夜明け前の希望は、それくらいでじゅうぶんだ。

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