「与えよ。然らば与えられん」。
ルーマニアに、いる。
6月7日から、26日まで。
シンプルに、毎日楽しい。
こんなに楽しいと思わなかった。
ルーマニアが──もっと言うとシビウという街が楽しい。
シビウ国際演劇祭というイベントが楽しい。
一人じゃなくて、誰かと一緒に協力することが楽しい。
初めて来た地ではじめましての人たちと、いろんなことを話したりパフォーミングアーツを観たり感想を言い合ったりするのが、楽しい。
シビウ国際演劇祭は、毎年テーマを変えて実施される。
今年のテーマは「Arts of giving」。
こんなに、本筋のテーマをまじまじと感じるフェスティバルは、わたしの中ではかつてない。
それくらい「giveしてもらっている」と感じるし、「giveしたい」と思っている自分がいて、ちょっと驚いている。
giveしてもらっているもの──たとえば、ホストのデニサのホスピタリティ。
世界中から集まったカンパニーの作品。
ボランティアメンバーが助け合っている様子……。
普段は、たいそう自己中で「自分のために相手へgiveする」というスタンスでないと、しっくりこない小さい人間だ。
そんなわたしが無条件に「giveしたい」と思えるのは、わたしがまだ何もgiveできないからなのかもしれない。giveできるものを、持っていないことを、自覚してしまったからかもしれない。
同時に、アートはオピニオンであり、対立するものへ立ち向かう鎧(剣ではない)であり、連綿と受け継がれるDNAであるということを、シビウでは、生々しく感じずにはいられない。
表現をする人にとって、表現者の人生とその人生を支える土地の歴史は、血肉なのだ。
どんなにあちこち飛び回る生い立ちだったとしても、人は必ずどこかの土を踏んで命を刻む。
その足の裏で見た景色は、自然、わたしたちの一部をかたちづくる。
ノスタルジーに浸るとか、そういう懐古的な話ではない。
今わたしたちが使っている言葉やからだは、顔も名前も知らない先人たちの遺産だ。
日本人は着物を着ていた時の歩き方がまだ抜けていないし、ルーマニア人はルーマニアの歴史ゆえの言葉遣いやジョークがある。
無意識のうちに、わたしたちは何かしらを受け継いでいるし、その受け継いだものが「アートとはなんぞや」という問いについての答えを、多様にしている気がする。
「アートとはなんぞや」などという、もはやナンセンスなんじゃないかと思っちゃう問いについては、一つわたしなりに答えがある。
アートはオピニオンであるというのは、ヨーロッパに来るたび強く感じることだけれど、今回はそのパンチが強い。
アートと社会はものすごく濃いグラデーションでつながっているのだなと、先の歴史の話と重ねて思う。
例えば何かを申し立てたいとき、真正面から正義をぶつけることは簡単だ。
「それは違う」。
「間違っている」。
自分の思惑と合わないことは、目を塞ぎたいくらい鮮明に浮き彫りになるから、批判や反対をしやすい。
正義が、とたんに、攻撃に変わる。
つまり「分からない」ことなんて、やまほどあるのだ。
「どうしても理解できない」ことだって、ある。
それから「どうしても分かってもらいたいこと」も、きっとある。
そんなとき、アートは伝える役割を担う。
真正面からぶつかっても、受け取ってもらいにくいこと。分かってもらいたいけど理解してもらえないかもしれないこと。
それらを「アート」という術のチカラを借りて、相手に届ける。
そう、「アート」って、伝えるというより、届けるものかもしれないと、思う。
「伝える」行為は、どこか「分かってもらえるため」の行為だ。まあ、あたりまえだけれど。
一方「届ける」行為を通じて手渡されたものについては、分かってもらえなくてもいいような、気がする。
「わたしはこういう思いがある」「わたしはこう考えている」ことを、相手へ届けて、そのあとは受取手次第──そんなニュアンスが「伝える」行為より「届ける」行為のほうが、強いような気が、する。
「Arts of giving」のgivingは、この「届ける」行為にも、よく似ている。
もっと言うと「贈る」ことかもしれない。
アートがわたしたちにgiveすること。
アートを通じて誰かにgiveする行為。
わたしがアートに、誰かに、giveできるもの。
相手を刺す剣ではなく、「わたしはこう思う」と相手に届ける鎧としてアートをまとえたら、わたしもなにかを、だれかに、giveできるだろうか。