みてはいけないものを、みてしまった|映画『太陽の塔』
人生を変えてしまう、からだを貫く閃光のような出会いは、たいてい不意うちだ。
同時に、それらは偶然のようにやってくる。
ただ、その偶然を引き寄せているのは、実は偶然ではない。
映画『太陽の塔』を観た。
1970年に開催された大阪万博。掲げられたスローガンは「人類の進歩と調和」だった。
映画は、それに対するアンチテーゼの象徴のようにつくられた「太陽の塔」を中心として、渦のように時間軸をめぐるドキュメンタリーだ。
「太陽の塔」は、いわずもがな、アーティスト•岡本太郎氏の作品。
2018年3月からは、長期で入れなかった塔の中が解放され、人数制限こそあれど一般公開されている。
この映画も、そのタイミングに合わせてつくられたという。
ドキュメンタリーは9つの切り口で展開される。
その4つ目「起源」というテーマのなかで「岡本太郎は日本人はどこから来たのかを探る旅に出た」というエピソードが語られる。
同時に、のちに彼の作品には欠かせなくなる縄文文化や、沖縄から北海道まで歩いて撮りためた写真や、映像が出てくる。
わたしはそのエピソードに差し掛かってから、映画が終わるまで、ほんとうに、ずっと、泣いていた。
涙ってこんなに流し続けられるんだと驚くくらい、はらはら涙がこぼれ続けた。
金縛りにあったように、からだは赤い座席シートに固まったまま、涙だけが、延々と、90分間くらい流れ続けた。
「観てしまった」と思った。
とうとう、足を踏み入れてしまった、と。
恐怖なのか、感動なのか、歓喜なのか、これという名前のない感情に、立ち尽くし、ぼうぜんとした。
映画を見終えたあと、なんの揺り戻しか分からないけれど、気分が悪くなって少し吐いた。
そして、電車に乗りながら、どうにかしてこのありあまる想いを伝えなければ、と思い、『太陽の塔』を撮った関根監督に長文メールを送りつけるという暴挙を働いた。
このnoteのなかで、いろいろ書いては消したのだが、やっぱり観終わったあとの生々しい叫びより適切な表現が出てこなかったので、そのまま転載する。
このメールは、改行をいじったくらいで、ほぼそのまま。
昼下がりに突然送られてきた上記のような謎の興奮メッセージに対して、関根監督はその日のうちにとてもやさしいお返事をくださった(ありがたくてまた泣いた)。
今までずっと、わたしは自分に正直に生きていると思っていた。
やりたいことは誰がなんと言おうとやるし、好きなことを大切にしてきた、つもりだった。
でも、どうしても、距離を測りかねて様子を伺っている世界が、あって。
いつもなんとなく気になるけれど、そこへ行っても自分は何ができるかなんて分からないし経験もないし実績もないし知識もアレもコレもないし……と、うじうじうじうじうじうじ言いながら、その世界を眺めていた。
けれど
何をしていても、どんなに満たされても
やっぱりその世界に戻ってきてしまうなら。
いろいろな経験と愛をもらって、それでも、何もかも捨ててもいいから飛び込みたいと思う世界があるなら
やっぱりその世界が、きっと、自分の居場所なのだと思う。
無いものを並べ立てて盾を作り「自分らしく生きている人ごっこ」をするのは、もう、おしまい、だ。
人生を変えてしまう、からだを貫く閃光のような出会いは、たいてい不意うちだ。
同時に、それらは偶然のようにやってくる。
ただ、その偶然を引き寄せているのは、実は偶然ではない。
と、わたしは思う。
無駄なことなんて、本当に、一抹もない。
すべてが“いま、ここ”という物語への伏線だ。
偶然は、その伏線が呼び寄せた、過去の自分からの贈り物。
贈り物に気づくかどうかは、タイミングと、その人次第。
こんな背中の押され方をしてしまったら、もう、あとに退くわけにはいかない。
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