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誰かにとっては苦痛なこと。私にとっては幸せなこと。
今日は、京都マラソンが3年ぶりに開催された。私の父が参加することになっていたので、母と応援をしにコースである鴨川の河川敷に向かった。京都で暮らし始めて、よく散歩する道や好きなお寺がある場所がコースになっていて、なんだか不思議な気持ち。京都市内に42.195kmのコースが張り巡らされ、平安神宮でゴールというコースだ。
今日は残念なことに、朝からずっと雨が降っていた。天気が良かったら鴨川の河川敷を走るのは気持ちが良さそうなのに。と、私が走るわけでもないのに、少し惜しい気持ちになってしまう。
私の父は今年で58歳になる。なぜか50歳を超えてから趣味でフルマラソンを始めた。週5日、片道1時間の自転車通勤、週末には登山に行ったりランニングをしたり。身体を酷使しているようにしか見えないのだけど、やっぱりそういう生活をしているからか、娘の私から見ても、年齢よりもずっと若く見える。
そんな父を見ていて、そして今日42.195㎞を走る人たちを見ていて、人はどうして辛いことをあえてするのだろうか、とつくづくと感じたものだ。フルマラソンをしない人にとって、42㎞をひたすら走る、という経験。とんでもなく辛いことにあえて挑戦する、その辛さを乗り越えた先に、何があるのか、と思ってしまう。
けれど、父は、見ている側からしても辛さしかなさそうな42㎞を、何度も何度も乗り越えている。どうして。諦めたくならないのだろうか、嫌にならないのだろうか。
と思うけれど、ふと、人によっては「すごいこと」も、その人にとっては「当たり前にやっていること」であるのでは、ということに気づいた。私にとって42㎞走りぬくのは果てしなく辛いことであると感じる(ほとんどの人がそうかもしれないけれど)。けれど、父にとっては「走ることが好きで、ゴールした時の達成感がたまらない」のかもしれない。この一人ひとりの感覚の違いが、面白くてたまらないものだ。
そういうものは、私にもある。よく「noteを書き続けてすごいですね」といわれる。文章を書く習慣がない人にとって、noteを書き続けることは辛いことに映るかもしれない。けれど、私はこうやってほぼ毎日noteを書き続けていることに、辛さを感じることは全くと言っていいほど、ない。当たり前のように続けているし、苦痛を感じることもなく、むしろ気持ちが整理されて、いい習慣だ、とも思っている。
一人ひとり、そういう「当たり前にやっている好きなこと」を持っているのだ。誰かにとっては、ひたすらに苦痛だと感じることでさえも、その人の目を通せば幸せの源泉だと感じるのだろう。
それぞれの違いこそが面白いし、その違いを面白いなあといつまでも思える自分でありたいなあ、と思いながら、険しい顔をしながらも颯爽と走りぬくランナーの人たちを応援していた。
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