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十一歳で考えたこと
世の中には助けを求めても助けが来ないことがある。
私もそうだった。誰にも助けてもらえなかった。ずっと一人で耐えてた。
私は泣いても泣いても助けてもらえなかった。
「あなたは強い子」って決めつけられて、後回しにされた。
周りに味方がいないことは孤独で怖いよ。
確かに、問題を起こしてしまう子に注力することも大事だと思う。
その子だって、言葉では言えないからそうやって誰かの気を引こうとしているのかもしれない。
その子なりの「助けて」なのかもしれないから。
だけど、その陰に「助けて」も言えずにうずくまって一人で耐えている子がどれだけいるかも考えてほしい。
「真面目だね」 「優等生だね」って言う言葉に閉じ込められて、一人でもがいている子はきっとたくさんいると思う。
辛いのに辛いって言えないのは本当に苦しいんだよ。
誰も気づいてくれなくて、勇気を出したSOSも無視されて、自分が悪いって思うの。
自分で抱え込まなきゃいけないから、本当の原因も分からなくなるの。
いつも笑顔な子が泣かないってなんで思うの?
その笑顔の裏でどれだけのものを抱えているのか、少しでいいから想像してみてほしい。
いつも泣かないから問題ない。いつも問題を起こさないから今回だって大丈夫。
その”いつも”を維持するのがどれだけ大変か考えてほしい。
私もそうだったからよく分かる。フォロー役に回されて、だけど私のことは誰もフォローしてくれない。
そんな日々の中で笑顔を保つことがどれだけ苦しかったか。
逃げ場が現実にないことがどれだけの負担で、どれだけ地獄か。
それを少しでも一人一人が考えれば、私のような子は減ると思う。
全員の行動や表情や事情を全て考えて、把握しろって言ってるわけじゃない。
ただ、もし”あの子はいつも大丈夫だから”みたいなことを思っているとしたら、それは違うってことを言いたかったの。
私はずっと、一人なの。
誰も信じられない。人の悪い所しか見えない。そんな自分が嫌い。
学校の道徳の授業でいじめに関する授業があるでしょ?
それがすごく嫌いなの。
だって、「言葉遣いに気を付ける」ってっ振り返りに書いていた人が授業が終わった瞬間誰かの悪口を言っているから。
いじめられる方が悪いって当たり前のように笑ってさらっという人がいるから。
道徳の授業って、どんな意見でも否定しちゃダメでしょ?
全ての意見を大切にして受け止める練習をする授業だから。
でも、間違っていることには間違っているって言わないとだめだと思う。
全ての意見を認めることと間違いを黙認することは違うと思うから。
いじめられている方が悪いなんて当たり前のように言っちゃいけないと思う。
その人がどれだけ苦しい思いをしているかを考えないといけないと思う。
その人が何か過ちを犯したとしても、それをいじめる理由にしてはいけないと思う。
そんなときはどうしたら二度と同じ間違いを犯さないようにするのかを考えるべきだと思う。
それで納得できない人がいるかもしれない。
間違いを許せない人がいるかもしれない。
でも、その痛みを知っているのだから、同じことを相手にしてはいけないと思う。
どれほどの痛みなのか分かっているからこそ、その痛みの理不尽さを分かっているからこそ、自分はそれをしないようにしないといけないと思う。
もちろん、殺人事件の被害者のように、相手にも同じ痛みを与えないと、苦しいという意見もあることはわかる。
だって、そうだよね。自分の大切な人がいきなりいなくなって、しかも殺されたんだから。
まだ生きれたのに、その時間を奪われたんだから。
でもね、忘れちゃダメなのは自分が嫌なことは人にしてはいけないってことだと思う。
犯人に同じことを言えって言うかもしれない。
でも、自分も犯人になっちゃだめだよ。
大切な人はきっと、自分の優しさも見ていたはずだから。
だから、もし過ちを犯した人がいたとしても、その人をみんなでいじめていい理由にはならないよ。
そんなことをしても大切な人は帰ってこない。
学校でもそう。
悪口を言われたからって言い返すんじゃなくて、自分はそんな誰かを苦しめる人にならないようにすることの方に力を使うべきだよ。
一気に書き出しました。小学生の頃にずっと思っていたことです。偉そうに言っています。あくまで、若輩者の私一個人の考えです。
不快にさせてしまっていたら申し訳ありません。