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見上げればいつも四角い青空#41 「疎遠」という縁もあっていい
「最近、囲碁を始めました。頭の老化だけでも防ごうかとがんばっています(笑)」
今年のお正月、友人からそんな添え書きがされた年賀状を受け取った。
大人になってからも、数はとても少ないけれど、相手は男女の別に因らず、妙に話が合って一瞬にして友人になることがある。そんな人だった。
その友人と会ったのは一度だけ。旅先で知り合い、旅先の行程にあった移動時間を共有し、たくさんの話をした。
その友人とは普段から繋がっているわけでもない。思い出すのは、年に一度、年賀状をやり取りするときのほかは、知り合った旅先の情報に触れたときくらい。
知り合ったのは、メールやインターネットすらまだ存在していなかったころだ。
ボクたちはメールもSNSも不自由なく使える、世代としてはたぶん一番上に位置する世代だけど、その後、年賀状に記し、そして記されていたはずの電話番号やメールアドレスに直接連絡をすることもなく過ごしてきた。
「疎遠」
うとくとおいこと。音信・訪問が絶えて久しいこと(広辞苑第二版補訂版)
「久しい」とはどの程度のことを指すのかは定かではないけれど、ボクたちの関係はそう呼べるものなのかもしれない。 “年に一度だけ年賀状をやり取りする“、そんな距離感でもちょうどいい。そんなことを考えるボクは人としては薄情な人間なのだろう。
一方で、「疎」を接頭として動詞や形容詞と一緒に使う場合には、「少し、わずかに、ぼんやり、などの意を表す」(デジタル大辞泉)とされる。
常時つながっていなくてもいい。わずかに、ぼんやりとつながりつながっている。
もし会えたとしたらあっという間に時空を飛び越えればいいし、もし会える機会を得ることなく、そのまま朽ち果ててしまったとしても、知己を得る機会をすでに一度持てたのだから、それはそれでいい。
それも一つの「疎遠」という「縁」でもいいのではないか。
そんなことを思い、きっと今年も筆を取る。
最後まで読んでいただきありがとうございます。同じようでいて同じではない日々の生活の中で感じたことや考えたことを、800字の制限を付けてスケッチしています。よかったらまた立ち寄ってください。