生きるを辞める
みなさんは最近
繊細さんという言葉を
耳にしたことがありますか?
多分、雰囲気とかオーラとか
そういうものを敏感に感じ取って
心が疲れてしまいやすい人のことを
いうんだと思います。
その定義で行くときっと私は繊細さんです。
急に繊細とか言い出しましたが
以前の私は針に糸を通すように
人生に集中していました。
それだけ丁寧に生きていく
ということが
私の中で重要事項になっていました。
細かく細かく物事を見て
周りの人の動向や、
雰囲気まで読み取って過ごしていました。
そんな生活に限界を感じた時に
私は自分自身の存在を否定することを
辞めました。
簡単に言ってはみたものの、
潜在的な考え方を変えるのは
そんなに簡単ではなくて
何度も自己否定を繰り返したのを
覚えています。
とは言っても、
私は丁寧に生きている自分自身が好きでした。
人の心を敏感に感じ取って
日々ストレスを感じていましたが、
人の心を感じ取って
私なりに配慮する能力を持つ人は
あまりいないのではないか、
私にしかできないことだ。
という誇らしい気持ちもあったんです。
私自身の 生きる の 定義は
相手の気持ちを汲み取って、
細かな気遣いをしながら
人をできるだけ傷つけずに過ごすこと。
そして、周りからポジティブなイメージを
持ってもらうこと。
でした。
でも気がつくと私の心は壊れて
繊細さが私の首を絞め
誰かを苦しめないようにする代わりに
被害妄想のような、
ありもしないような相手の気持ちまで
勝手に汲み取って、自分自身が苦しんでいました
そこで、他人ではなく、
私を優先しなければいけない。
と本能的に感じたんです。
そして、以前よりも人を
注目してみることはなくなり
微妙な空気を見ても
その空気の調和を取ることを辞めたり
人に任せたりしていました。
常に誰かに見られているかもしれないし
いつ見られても優しい印象を持たれるように
ずっと笑顔でいたのですが、
その意識が完全に私を疲れさせていたので
そのような考え方も180度変えて、
ぼーっとすることも増えました。
以前に比べたら雰囲気を感じ取って
ダメージを受けることも減りました。
すると、
生きるという定義は
大きく変わりました。
今の私の 生きる の定義は
私自身が幸せでいること。
それだけです。
でも、私の自慢だった
察する力はどんどん衰えているように感じます
察しようと思えば察することはできますが
人の心と一対一で向き合う勇気をなくしたんです
ただでさえ
私自身の幸せのために
私は私と向き合わなければいけないのに
他人の心にまで気を配って
勝手にダメージを受ける余裕なんてないんです
もっと人と向き合って、
人の気持ちを考えて、生きていくことが
人生だと思っていた私は
私の幸せを優先するようになったあの時を境に、
どこか、生きることから
目を背けたような気がしているんです
それからの私は第二の人生を歩んでいるような
今まで見えていた世界とは
まるで違う世界に生まれ変わったような
そんな気分です。