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実りのない大学3年生に捧ぐ


  断言しよう。大学三年の夏前までの私の約二年は、ホールデン・コールフィールドの冬よりもひどいものであった。きっと記憶の隅にもおけない6月の雨の日なども事細かに話せば、サリンジャーでさえ嘆き同情するに違いない。なぜ可笑しな子供が見えるとまでのたまった彼よりも、私自身が同情に値するのかといえば、私が21というかなりタチの悪い年齢であるからだ。

  今からここに記すことは私の大学二年間のことであるが故に、私の反省文、懺悔となるだろう。

  大学一年の新歓時期、酒を飲むことと性行為にしか能のない、本能を具現化したような経済学部生みたいにはなるまいと、この19年間健やかに、甲斐性なく育ててくれた親に誓った。カルフォルニアに高くそびえ立つ山のハリウッドと書かれた文字盤まで名前を轟かす映画を作ることを決意し、意気揚々と大学へ入学。お互いを高め合える友人たちと制作活動に励み、時にはぶつかり合いながら、支え合い、その中で同じく創作意欲にあふれた愛おしき恋人を作り、共に創造的未来を目指すことに夢を見た。しかし現実とはいつも頭にある想像よりも悲惨で冷たいものであることを、高校の時点でもっと学んでおくべきだったのだ。実際に私が送った大学生活は、課題に追われ、妥協に妥協を重ねその上に更に妥協をべたべたと塗ったような作品を提出し、当たり前のように酷評をくらい、もう映画は嫌だと嘆くものであった。そして華のようなキャンパスライフをおくる経済学部生を妬み皮肉りながら、これまた私と同じような大学生活を送る友人たちと足を引っ張り合うように呑んだくれるだけの毎日を送った。

  この足の引っ張り合いレースは大学三年になった今でも続いてるわけだが、もはや今は目も当てられない、小学野球男児の草野球よりも遥かに上をいく泥仕合にといえるものになっている。念仏のように「恋人が欲しい。人肌が恋しい」を繰り返し、ずるずると他人の足元を見る。もしこれが宗教上何かご利益のある有益な言葉だとしら、私たちの極楽浄土はとうに決まっており、今世では聖人になっていたであろう。誕生日やクリスマスなどのイベントは恋人のいない身内が一斉に介し、むさ苦しい空気の中、不釣り合いにデコレーションされたケーキを囲んで地獄の賛美歌を歌う。裏切りがないかいつも見張り、見張られ、その瞳孔が閉じることはなかった。これが丸二年。丸二年も続いているのだ。 

  いまや私の自尊心はどこにあるのかすら分からなくなってしまった。ハリウッドの山よりも高い見えないところにあるのか、自分の足のつま先よりも低いところにあるのか、それすらも検討がつかない。大学一年の頃にあった創作意欲などはとうに燃え尽き、今目の前にあるものといえば、三年という学年に嫌でもまとわりつく責任と、一年半後に待っている恐ろしいほどの未来、そしていよいよ取り返しのつかないところまできてしまったという感覚だけである。ここまで絶望的な状況になり、私の念仏は変わりつつある。「結婚がしたい」


  安らぎが欲しい。休むところが欲しい。甘やかしてくれる人が欲しい。温もりが欲しい。
私の手を見てもそこにあるのは、友人の足首のみだ。友を引っ張るためだけにあるこの手を、最愛の人を握るためのものにしたい。それが叶うのならば私は即座に両手に持つ色旗を白に変え、躊躇なく両膝を地面につけることだろう。
  もし私に愛おしき人がいたとしたら、ここで書かれていたのは懺悔でも言い訳がましい回想でもなく、恋人との馴れ初めから小さな喧嘩であったはずだ。19の時に伊豆で知り合わずとも良い。平凡で良いのだ。成人式で再会したとか、サークルが一緒だとか。小さな喧嘩だって、女性雑誌のお悩みコーナーで百度となく挙げられてきたもので良い。例えば、お互いのバイトが忙しくて会えずにすれ違ってしまっただとか、異性の多い飲み会には行くなと言われ束縛されるのに、相手はそういった飲み会によく行くだとか。そういう些細な喧嘩の度、仲直りを積み重ねる。そしてそんな惚気話を全世界へ公開した後、こんな一文で終わるのだ。「ここ最近の発見といえば、彼の脇腹に小さい星のようなほくろがあって、それがなんとも形容し難いほど愛おしく見えてしまうこと」

  しかし残念なことに、私の隣には小さなほくろがある恋人などいない。

  最後にもう一つ断言しよう。この二年で私が発見したことなど何一つもない。些細なことでさえもない。何か一つ、どうしても発見したことを伝えなければならないというならば、あえて言おう。この二年で私が発見した物事など何もない、という発見はある。
  

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