信仰とピアノレッスンと
ピアノのレッスンで先生に言われることや、学ぶこと感じたことと、信仰することで学ぶことが、とても共通点が多い!ということを、日々感じています。
ピアノのレッスンで先生が、
「子どもは、言われたことを素直に聴くから成長も早いのだけど、大人の生徒さんは、年齢や社会的地位や肩書き、それまでの経験や自分の考え、プライドがあって、なかなか素直に受け入れてくれないから難しい。」
と嘆いている時がありました。
詳しく話を聞くと、
弾き方が楽譜通りではないから「ここは、こういう風に弾いてください」と伝えると
「私はそういう風に弾きたくありません」
と聞かなかったり
弾きたい曲をやりたいのは分かるのだけど、基礎の土台がなくてめちゃくちゃに弾いていても良くないから
基礎練の話をしたり、そこは指がきちんと動けてないと指摘しても、あっけらかんとしていたり、
本当に教えるのが難しいとのことでした!
レッスンに来ているということは、先生に教えを乞うために来ているのに、そんな感じなのかと、とても驚きました。
でも、信仰のことを考えた時に、同じような事があるなぁと思いました。
とても心にストンと入ってくる内容で、本当にそうだなぁと実感することは素直に聞き入れることが出来るのですが、いまいちピンとこなかったり、よくわからない事は、そうかなぁ?違う気もするなぁ?などと、自分の考えや自分のこれまでの経験から勝手に判断してしまう時があるのです。
そして受け入れられることは受け入れるけれど、違う気がすることは受け入れてないままにしてしまっていることがあるなぁと、改めて気付かされ、自分もピアノのレッスンに来て、素直に先生の言うことに聞き従わない人たちと何も変わらないではないか、と反省しました。
また、ピアノのレッスンで先生は、
「どこまでも上を目指してやってね。出来ないと諦めたらそこで終わりなのよ。10目指して頑張って、やっと5出来るのに、初めから5しか目指さなかったら、2までしか到達しないのよ。どこまでやっても終わりがないから、楽しくもあり難しいけど、深い世界なのよ。」
とおっしゃってくださいましたが、
まさしくこれも信仰でもあてはまることです!
いつもリンクしていて、ピアノの先生の言葉が、今私の信仰の状態に対しての必要なアドバイスだったり、悩んでいたことの答えだったりすることが多くて、
神様が先生の口を通して伝えてくださったのかなぁと、いつも不思議な気持ちになります。
「主を賛美するために民は創造された。」
と、聖書にあります。音楽を通して主を賛美したいと、信仰を持ってからは、いつも神様に心を向けてピアノを弾くようにしています。
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