ドイツを東西に分断していたベルリンの壁が崩壊した頃、まだソ連と呼ばれていたロシアの北極圏へ行ったことがある。C.W.ニコルさんの北極紀行を読んでいたら、オーロラ越しに見る星の美しさについて綴られた一文があり、ああ、いいなあー、私も見てみたいなあー・・・・いや、見たいと思ったら見に行けばいいんだ、と。あまり有給を使わずにオーロラを観に行けるツアーとかないだろうか?と探してみたら、あった。 モスクワに到着したのはクリスマス・イブの早朝だった。 翌日、飛行機でレニングラード(現サ
一度だけ馬に乗ったことがある。予想以上に身体が上下し、その度に馬の背で自分の尻がぺったんぺったん餅を搗く。ならばと鞍の下に硬い肉を置き、己の動きで肉を叩いて柔らかくしたのがタタール人で、それがヨーロッパに伝わった時、「肉は火を通して食うもんだ」と言って(たぶん)ステーキにされ、ハンブルクの人に卵と一緒にパンに乗せられアメリカへやって来た。そこからは更に諸説様々、最初はステーキサンドだったとか、ミートボール売りの少年が売れねぇーとぺんっと伸してパンにはさんで売ったのが最初のハン
エジプトの首都カイロにハーン・ハリーリというスーク(市場)がある。その賑わいは10世紀初頭に始まり、やがて隊商宿がひしめき、遥か遠い砂漠や海を越えて様々な品が運ばれ、商業の中心として栄えたと言う。時は流れ、歴史は重なり、インディ・ジョーンズがカーチェイスやって突っ込んできそうな風情を残しつつ、スークはより雑多に多国籍になっていく。 あるツアーのフリータイムにこのスークを一人散策してみた。細い路地へ入るとごちゃついているが治安に不安はなく、むしろ不安なのは私(の方向感覚や記憶
昔々『サイボーグ009』でツタンカーメンという名を覚え、『王家の紋章』にハマって古代エジプトに惹かれ、初めての海外旅行でエジプトへ行ったらすっかり古代オリエント世界に惚れてしまい、結果、旅先はアラブ・中東のどこかという時期がしばらく続いた。私はイスラム圏旅行中は飲まないことにしていた。いや、別に異教徒の旅行者が飲む分には問題ないのだが(イラン除く)、わざわざモスリムの前で飲むのも何だし、砂漠も多く、大変乾燥しているのでとにかく喉が渇く。アルコールより水水水!となるのだ。 9
まだ東北新幹線がなかった頃、両親の故郷である青森へ行くには、上野から特急「はつかり」で8時間半ほどかかった。出発日が近づくと、子供たちは列車内で食べるお菓子を真剣に選び、面白そうな本を見つけると「車内で読むから」を理由に買ってもらう。当日は早朝に家を出、駅で冷凍みかんや飲み物を買って乗車。車内にオルゴールの「鉄道唱歌」のメロディーが流れ、子供には(大人にとっても)かなりの長旅が始まる。 その頃は移動に長時間かかる特急列車には食堂車がついていた。車内販売も悪くはないが、さすが
自分の最古の記憶(かもしれない)の話。私が三つまで住んでいたアパートの近くには大きないちじくの木があって、母はその木から熟した実を一つ捥ぐと「冷やして食べようね」と言って冷蔵庫に入れた。私は何度もドアを開け閉めしては「まだかな?まだかな?」といちじくの冷え具合をチェックしていた。冷蔵庫にはあまり物が入っていなくて、がらんとした中、いちじくはぽつんとした存在感を示していた(ような気がする)・・・・とそこで記憶は終わっている。 それから二十年もの月日が流れた頃、私は中東をよく旅