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私らしさに苦しめられないように。

連日の長雨の蒸し暑さは人の機能や意欲を低下させるのでしょうか。毎日の家事の中でもイライラしたり、うまくいかないなぁと感じることが続いています。

特に洗濯!

梅雨の晴れ間を狙っては外干しを試みるのですが、あっという間に日が陰ってしまい、終日干していても”じめっと”した洗濯物がほとんど。この時期は基本、浴室乾燥機との併用ですが、なかなか一度では乾き切りません。しかも乾燥機をかけていると部屋全体が暑くなるので冷房を強めに設定。足元が冷えてしまい、靴下を2枚重ねに。でも掃除や炊事中にはうっすらと汗が。自分でも暑いんだか、寒いんだかよくわからない状態。

でも洗濯物は毎日出るわけで、ほおっておいたら、あっという間に山積み。大量の洗濯物を洗っては干していた時に手を滑らせてベランダの床に落としてしまい、思わず「うああっ!」と声を上げてしまったことも…そりゃあ、機嫌も体調も悪くなります。

うちは子どもがいませんのでそれでもまだましなのでしょう。小さいお子さんと日々奮闘するママさんにはもう尊敬の念しかありません。

ところで家事は「仕事」なのでしょうか。それとも「仕事ではない」のでしょうか?いろんな考えの方がいると思いますので敢えて断定はしません。

僕の中では「5:5」の割合です。主夫業を始めて、自分が思っていたよりもずっと家事が楽しいことがわかったので、これを「仕事」と割り切ってしまうのは少し寂しい気がします。また家事を行う人がいなければ妻と僕の衛生的な生活は成り立ちません。一週間もしたらあっと言う間にごみ溜めの中で暮らすような毎日となるでしょう。そう考えればお金を稼ぐことと同じくらい大切な「仕事」ではないかとも思えます。はやり言葉でいうと「エッセンシャルワーク」ということになるのでしょうか。

けれども家事は「必ずやらなくては」ダメというものでもありません。誰でも得手、不得手はあるし、女性であっても料理することが嫌いな方もたくさんいます。僕の妻もそういう人です。けれども例えば「”女性だから”、”ママだから”やらなくては」という重圧に疲れてしまい、クオリティオブライフ(生活の質)が下がるくらいであれば、代替えの手段はたくさんあるし(もちろん多少のお金はかかりますが)それを周りがとがめる理由などひとつもないなと僕は思っています。

とても興味深い記事がありました。

「料理は愛情表現」と思っていた廣岡さんは、自分も働きながら毎朝お弁当を用意し、夕飯も作った。しかし、結婚前から気づいていた。自分は料理が好きではない。栄養バランスを考え、食材を買い込み、調理し、おいしそうに盛りつける。多くの人がさも当たり前のようにやっている(やってもらっている)ことだが、相当なスキルと時間の捻出が必要だ。

 夫の実家から送られてくる野菜には、たけのこや山菜など調理が難しいものもあった。消化できない野菜で冷蔵庫が埋まり、腐っていくのを見ては憂鬱になった。義母の厚意を無駄にしていることに罪悪感を覚えた。

※記事より一部抜粋

記事で紹介されている「ご近所シェフトモ」。登録されている近隣の飲食店に、夕食の主食と副菜を調理してもらい、テイクアウトできるという優れもののサービスです。中食需要が広がる中での一般的な出前メニューとも違う家庭料理感が特長で、外食がしづらくなっている昨今、地域の飲食店と家庭をダイレクトにつなげていける画期的な取り組みだなぁと感じました。何よりこのサービスを立ち上げた廣岡さんという方の決断と行動力が素晴らしいですし、「料理に“手抜き”も“サボり”もない。料理を作らなくても、幸せな食卓は作れる。私はそう信じています」という考えは同じような悩みを抱えている方にとっても心強い言葉だなと思います。

重圧や強迫観念みたいなものはいったいどこから生まれてくるのでしょうか。僕の周りでも年代や性別に限らず、そのことに苦しんでいる方は少なくないように思います。社会や家庭でのそれぞれの立ち位置で理想とされる姿、自分で思い描く姿との乖離に心を悩ますことは誰しもあることです。

前出の廣岡さんのお話からも感じたことですが、女性は料理が好きである、母親は家庭で料理を作ることは当然という見えない重圧を跳ね除けるのはやはり容易なことではありません。今時「女性らしく」「ママらしく」というステレオタイプに無理矢理、自分を当てはめる必要などどこにもないと思いますが、ある立場に置かれると何故か人は誰が決めたわけでもない「あるべき姿」に自分を近づけようとしてしまいがちです。

そして「私らしさ」という言葉にもわずかばかりそういう毒が潜んでいるのかもしれません。最近は仕事にも生き方にも、折に触れ「私らしさ」を求められるようにもなりました。僕自身、それを活かせる場所や仕事を追い求めてきましたが、その先にいると思っていた肝心の「私」にはとうとうたどり着くことができていません。そもそもそんな「私」が本当にいたのかすらも今となっては怪しいところです。「私らしく」働き、生きていたつもりでも、です。

主夫に取り組みだした最初のうちはとかく完璧を目指しがちでした。毎日掃除、2日に1回は洗濯、食事はバランスよく、毎日違うメニューで…それは新しい居場所を確固たるものにしたいという気持ちからでしたが、早々に息切れをしてしまいました。仕事もそうでしたが「私らしく(主夫として)生きたい」と気負うことがかえって僕自身を苦しめていたのかもしれません。

以前より外出の機会が減り、他人とのコミュニケーションも希薄になってくると、大切な対話相手である家族から、思うような反応が返ってこないこと(例えば、食事についての妻の反応が鈍かったり)もストレスにもなります。「私らしさ」を認めてほしいと強く願うことがいつしか「私」を苦しめている、そんな気持ちにもなりました。

実は今もその葛藤の中にはいるのですが、noteを書くことで自分の中にあるいろいろな想いを整理させてもらってきました。そして少しだけ気づいたことがあります。

私らしさに、もう苦しめられない。

「私らしく」なくても、「私」はいます。そんな「私」を大切に思ってくれる妻もいます。もしかしたら「私らしくない私」を好きになってくれる人がいるかもしれません。手垢にまみれた「私らしさ」を当てはめて窮屈になることからいったん逃げてもいい。自分を責めないようにする。

「私らしさ」という言葉で表すことすら、やぼったさを感じてしまうくらい、かけがえのない毎日が、僕の目の前にはあります。だからこそ、今は「私らしく」ない「私」を積み重ねていきたいと思っています。

イラスト:いちごいちえさん 

※記事リリース後、思うところがあり、数カ所、加筆修正しております。

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