苺のショートケーキと、凡庸と。
ショートケーキが苦手だ。けれどもこれまでもっとも多く食べてきたのは間違いなく苺のショートケーキだ。
色とりどりのケーキが並ぶ店のショーウィンドウの前で、私はどうしていいかわからず、いつも立ち尽くしてしまう。
「食べたいケーキはこれ!」とすぐに決めることができない。あたふたとしている間に他の客が私の後ろにつく。さっきまで楽しかったケーキ選びが瞬く間に苦痛を伴う時間に変わる。早くこの場から逃げ出したくなって、いつものように苺のショートケーキを買う。
苺のショートケーキが食べたいのではない。ショートケーキ「で、いいや」と折り合いをつけて、欲求に急いで蓋をする。
これは子どものころから変わらない。
私の弟は気持ちをストレートに表現するタイプだったから、ケーキでもおもちゃでも、ほしいものがあれば躊躇なく親に訴えた。時にそれがかなわず売り場でだだをこねて、泣いた。
その様子を冷ややかに見つめながら、私は欲しくもない苺のショートケーキを買ってもらう。削ったチョコレートをまぶしてあったり、赤紫色のジェリーがのっているケーキ、大きな栗がのった黄色いモンブラン。目の前の選択肢はたくさんあった。でも「で、いいよ」で事が丸く収まればいいといつも首を振った。
苺のショートケーキはどのお店で買っても絶望的に不味いと感じることはほとんどない。誰もが納得できる平均点。際立った感動はないが、そこそこ満足できる味。一言でいえば「凡庸さ」の極みだ。
そんな「凡庸さ」を選び続けながら、一方では憎んでもいた。だから地元の大学にこぞって進学する高校の同級生を見下しながら東京の芸術系大学に進学した。苺のショートケーキを選ぶしかなかった私をその対極にある何かに変えたかったのかもしれない。
時が経ち、4社目の会社を辞め、文章を書く生活を始めた。だが書けば書くほどに私自身が限りなく凡庸だと思い知らされている。思考も表現も文章のてにをはに至るまで「凡庸さ」から逃れるための行為がかえってそれを際立たせてしまう皮肉と毎日向き合わなければならなくなった。そして今でも、変わらず苺のショートケーキを買ってしまう私がいる。
本当は、凡庸でもいいと認めてほしいのかもしれない。ずっと敵とみなしてきたものが実は私の中に息づいていて離れない。嫌で仕方がなかった苺のショートケーキを選んで喜々としてほうばる私がいつもそこにいるのだ。
そんな矛盾に満ちた私を苺のショートケーキは今日もショーウィンドウのかたすみから見つめている。人気ケーキの移り変わりは早い。けれど、変わらないと決意したものにしかない輝き方もまたあるのだろう。私の中に息づいて変わることのない「凡庸さ」と苺のショートケーキがあと少しだけ好きになれればいいのだがと最近は思う。
巣鴨 「フレンチパウンドハウス」の苺のショートケーキ
私の中ではいちばん美味しいと思います。
東京都豊島区巣鴨1-4-4 03-3944-2108
https://frenchpoundhouse.shopinfo.jp/
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