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50年目の桜桃忌

昨日6月19日は太宰治の命日、桜桃忌だった。
三鷹市に生まれ育ったわたしは、太宰の墓がある禅林寺もすぐに行けた。若い頃、考え事をしたり何となく寂しいけどべつに誰かと会いたい訳じゃない時「太宰さんのところに行こう」と思った。
太宰治と向かい合って森鴎外の墓がある。
森林太郎と太字で彫ってある。

墓のそばに座って、何となくぼんやりしたり煙草を吸ったりしていた。
ほとんど誰にも会わなかったが、一度だけ太宰の遠縁に当たると名乗る紳士に遭遇した事がある。太宰のような黒いマントを羽織っていた。わたしはよほど疑い深い顔をしていたのだろう。その人は「唐突で信じ難いかもしれませんが」と前置きして少ないエピソードをぽつりぽつりと話してくれた。

柔和な笑顔が印象的な老人だった。
「ここは普段は静かですが桜桃忌は若者たちでいっぱいになりますね」と仰った。

そのとおりだった。
毎年6月19日は狭い境内に太宰ファンが集合し、マスコミが来る時もあれば文学少女をナンパする為に来るけしからん奴もいた。
いや、実際にここで出会い太宰ファンというキーワードで結ばれたカップルもいたから安易な事は言えない。
その二人が憧れの地、三鷹市に引っ越してきてブックカフェ「フォスフォレッセンス」を開いたというのは、ファンの間では有名な話だ。(わたしも何度もおじゃましている)
ただ、片っ端から女の子に声をかけている男を目撃した事があるのでウンザリしたのも事実である。

そういう訳で、わたしは桜桃忌に行かなくなり、やがて結婚して三鷹市から離れた。
妊娠して出産予定日が6月17日とわかった時「桜桃忌の近くだ!」と思った。もしも6月19日が誕生日になったら桜桃にちなんで桃子なんて名前はどうだろう?いやしかし、女の子とは限らない。男の子だったら?桃太郎!?
それはないか……とわたしは三鷹の実家に帰ってまだ見ぬ赤ちゃんのためにタオル地でぬいぐるみを作りながら考えた。

結局、産まれたのは18日で男の子だった。
長男は桃太郎ではなく賢く心の広い子にと願って名付けた。タオル地のぬいぐるみはずっと彼のそばにあってボロボロになったが幸せだった。

それからたくさんの月日が流れた。
三鷹にも、もう家はない。同居していた両親は他界し三人の子ども達は自立し私たち夫婦は別居している。
先日、太宰の愛した跨線橋がなくなるというのでちょっと話題になった。太宰ファンが全国各地から訪れていると言う。
わたしは三鷹が好きなので遠くへは引っ越さなかった。
時々乗るシティバスには「跨線橋前」というバス停があり窓から感慨深く眺めていた。閉鎖され上れなくなった今でもそこを通るたびに、懐かしい思い出に浸ることがある。

そして昨日「今日は桜桃忌だね」というメールが届いた。
「たしかきみが連れて行ってくれたんだと思う。僕たちは二十歳くらいだったんじゃないだろうか。」と文は続いていた。
高校生の時に「文芸サークルを作りたい」、とある冊子に書いていた彼と出会った。50年以上前の話。地方に住んでいた彼が大学生になって上京し、それからずっとずっと今まで友だちでいる。

すごく仲が良かったわけでもない。
でもわたしは彼の書く文章が好きだった。
文学青年っぽい雰囲気も気に入っていた。
彼はどう思っていたのだろう。しょっちゅう誰かオトコとつきあってるヘンな奴、と思っていたかもしれない。
二人で尾瀬にも行った。
宿直のアルバイトをしている彼に差し入れにも行った。うちに来て夜遅くまで話し込んだ事も何度かある。

そして時が流れた。
それぞれがそれぞれの場所で結婚し、多忙な日々を送りながら年賀状だけのやり取りになって何年も過ぎた頃、わたしは自費出版した詩集を彼のもとに送った。彼はすぐに返事を書いてくれた。
むかしよく手紙の交換をしていた、懐かしい字だった。
それがきっかけとなり、私たちは数十年ぶりに再会した。
とても懐かしい再会だった。話す事はたくさんあり時間はあっという間に過ぎた。
それから、彼が仕事で上京するたびに互いの都合をつけて会うようになった。
楽しいけれど切ない気持ちもつよかった。
無邪気にはしゃいでいた時を過ぎ、すっかりオトナになった私たちはもういろんな事を自分できちんと決めなくてはいけない。
二人の間にずっとあった暗黙の境界線を今度こそ彼は超えようとしてきたし、わたしにも迷いがあった。
海へのドライブでキスもしたし、別れ際に駅の雑踏で抱きしめられた事もあった。
滞在しているホテルに呼ばれた事もある。

それはとても簡単な事のようにも思えた。
「好きだよ」と言ってくれる男には案外たやすく応じてしまう。その頃わたしはそんなふうだった。
でもやはり、彼は大切な友人なので友人のままでいたかった。ワガママなのだろうか。
悩み葛藤して彼は「わかったよ」と言ってくれた。
また年賀状だけのやり取りになって何年も経った。

昨年のわたしの喪中はがきを読んで、彼が久しぶりに手紙をくれた。返事を書き、またメールがポツポツと復活した。
友だちでいてくれてありがとうと心から思う。
墓の下の太宰さんにもお礼を言ったほうがいいかもしれない。今度、サクランボが安く手に入ったら久しぶりに三鷹の墓地に行って来よう。やるせない気持ちで座っていた20歳くらいの女の子はもう70歳のおばあさんになったのですよ、生きてきましたよ、と手を合わせよう。

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