今のままで100%完璧な存在である
例えば、あなたの目の前にとても傷ついたかわいそうな人がいます。
その人を見て、癒してあげたい、救ってやりたいと感じることは誰にでもあります。
でもそれは本当なのかな。
傷ついているのは確かにそうかもしれません。
一生背負う傷かもしれない。
でも可哀そうは本当なのかな?
その人は一生可哀そうなの?
私が可哀そう、癒したい、救いたいと思っている限り、その人は救われることも癒されることもありません。
私がその人をそう思っている限り、その人は「可哀そうな人」を演じ続けます。
なぜならそれが私の望みとして宇宙はそれを叶えてくれるから。
目の前の人を癒したい、救ってやりたいと思うなら
その人はそのままで100%完璧である
を信頼することなんだと思います。
泣いていても苦しんでいてもいまのままで完璧であると。
もちろん、慰めが必要な時があるかもしれません。
その人の代わりに怒ることもあるでしょう。
そんな時でも
その人はそのままで100%完璧である
を信頼して受け入れれば何を話すか、どう行動するかが変わってくるんじゃないでしょうか。
このことにたどり着くきっかけをくれたのは並木良和さんでした。
ヒーリングの方法をオンラインで教わったのですが、その時にこうおっしゃってたんです。
誰かを癒したいと思う限り、あなたの目の前に癒されたい人が現れ続けるよ
この時にハッとしました。
癒したいと思っているだけなのに、癒されたい人を作っているのは自分自身なのか・・・!
「癒したい」願望をノージャッジな宇宙がかなえた結果なんですよね。
なので、目の前の人を「可哀そうな人」と思っている限り、ずっとその人は可哀そうな人になってしまう。
それはいやだな。
身近に機能不全な家庭で育った人がいて、その人のことをずっと可哀そう、救ってやりたいと思っていました。
でも逆だった・・・。
かわいそう、救われない、は私の勝手な思い込みで、そういう目で見ている限りその人はずっとかわいそうなままで私の目の前に現れ続けます。
そういうのは見たくないです。
あと、これも言われたな。
自分のことをかわいそうだと思ったことは一度もない。
なぜならそれが自分にとって普通のことだったから。
同情してくれる大人もいたけど、同情するなら金をくれ!ていうのが素直な気持ち。
子供のころ本当にそう思った。
刺さったなぁ。強がりだったとしても、同情という色眼鏡で相手を見ていたことに気づかされました。
そして、自分の価値観で勝手に決めつけようとしたこと、そこからくる同情はとても失礼なことだと悟りました。
私に必要なのは、そのままで100%完璧であると認めて信頼することなんだと思います。
しょんぼりしている姿はとてもぐっと来てしまいますが、そちらにフォーカスするのはなく、その人の中にある豊かさにフォーカスするべきなんですよね。
そして、私やその人そうであるように、私たちを取り巻くすべての人も、今のままで100%完璧であると認めて信頼すること。
なんとなく、本当の豊かさの一部に触れた感覚です。
この感触はちょっと心地いいかも。
以前にもどこかで書きましたが、この世界にあるものは茶道で使うお茶碗のような存在だと思っています。
完璧な丸や
ちょっといびつだったりいろんな形があって
いろんな色があって
綺麗な絵が描いてあったり
美しい釉薬がかかっていたり
灰が被るままに焼いてあったり
ちょっと欠けていたり
ひびが入っていても
割れていても
金継されていたりするかも
手の跡なんかついたりしちゃってても
年月が経って古びていても
丹精込めて作られた、豊かで味わい深い茶碗でどれも魅力的で完璧です。
目の前で気の毒なドラマが繰り広げられているとどうしてもそちらに引っ張られて忘れがちです。
だってメロドラマを楽しむために地球にいるんだもの。
だけどせっかく豊かさの一部に触れたのなら、この感触を忘れないでいたいと思います。