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エッセイ

小山田咲子さんのブログを書籍化した『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』がピンとこなかった、みたいなことを以前書いたけど、理由がなんとなく分かった気がする。

↓以前書いたもの

多分私、もっと癖のある人物像を求めてたんだと思う。妙なカリスマ性のある、天才的な人。

それなら、彼女が亡くなってしまったことが、小山田壮平さんの死生観や音楽活動にものすごぶる影響を与えてしまっているのでは、という仮説に、一層強い説得力があるから。
...とか、本当に失礼なことを思っていた。

実際、かなり面白い考え方をしたお姉さんだな、とは思ったけど、私が求めるほどの強烈さがそこにはなかった。それは別に良い悪いの話ではなく、ただただ等身大に、意識的に色々なものに触れに行き、様々な問題に実直に思考を巡らせながら、日々を懸命に生きていく女性の姿がそこにはあった。

それこそ、普通の女性が日常から非日常へ『えいやっ!』と飛び出しては、色々なことを真剣に考えたり、かと思えば日常を生きてみたり、というのを往復して日々をブラッシュアップしていく様を眺めているような感じだった。

めちゃ独特な人!みたいなことではなく、現状から飛び出そうと藻掻いているタイプの常識的な人に見えた。(的外れだったらごめんなさい)

期待していたのとは魅力の方向性が少し違って、ちょっとがっかりしている自分にがっかりだ。人様に対して、自分に都合の良いストーリー性を求めるなんて大変失礼だ。反省。

そもそも、ブログという形で人様の人生を垣間見させてもらっているだけありがたいというもの。勝手に神格化してはいけないし、自分の都合の良いように人の人生を捻じ曲げて解釈するなんて以ての外だ。

人間、自分の欲望を人に投影しがちだと思う。
会社で敬愛している先輩が、『政治家を熱烈に支持する人も、教育ママも、アイドルのオーディション番組に熱中する人も、みんな代理戦争をしているんだ』なんて言ってたけど、私は言い得て妙だなと思う。

自分にはない、自分が理想とする人物像を他人に委ね、投影し、代わりに戦わせている。

それを楽しむのは必ずしも悪いことではないとは思うんだけど、勝手に期待を押し付けて、理想と違う結果になった時に怒り狂ったりするのは土台おかしな話だ。勝手に期待したのはそちらだろう。その人にはその人の人生があるのに。期待される側のプレッシャーだって計り知れない。

これに限らず、親しい人間のことでさえ自分の想像する人間性を押し付けて、さも相手をキャラか何かのように人を自分の思う性格タイプに当てはめて見てしまったりする事例って多いと思う。
私は物事をかなりラベリングしがちな人間で、同じことを人間相手にもやってしまいがちだと思う。理想を押し付けてしまったりすらする。

レッテル貼りの何が悪い、みたいなことを以前書いてしまったけど、やっぱり勝手に自分を何かに当てはめられるのは、私自身としてもあまり気持ちの良いものではない。本当に人間って複雑な、多面的な存在だ。今見えている部分だって、その人が持つ要素のほんの一部でしかないし、どんどん変化していく。

ふと、『人って毎秒違う存在じゃん。だから、人に会う度、新しい人に話していると思ってるよ』という、臨床心理士をめざす友人の言葉を思い出した。
20歳の誕生日を祝ってもらったときに聞いて、とても印象的だったのを覚えている。

彼女は私と真逆で、全く物事をラベリングできない人だった。マクロに概略を理解することが苦手すぎて、暗記科目(特に歴史)がいつまでたってもできるようにならず、大学受験だって困難を極めたという。

代わりに、ミクロなことにはとてつもなく敏感で、ささやかな変化には誰よりも早く気づく、鋭い感性と洞察力を持っていた。
音楽を聴くにしても、メロディをパッと記憶したりはできないけど、細やかな音遣い、変化、自分自身のコンディションの変化に伴う聴こえ方の違いなど、そのすべてを楽しめるという。

1曲を何周したって飽き足らず、1ヶ月くらい楽しく聴き続けるのだと言っていた。それって立派な才能だと思う。

そんな彼女のカウンセリングはいつだって素晴らしかった。
いつも私の囚われている常識に揺さぶりをかけ、悩みを解きほぐすきっかけをくれた。私の知らない、私の良い点を沢山教えてくれたりした。
私は自分で自分をものすごく馬鹿なのだとおもっていたけど、とても頭の回転が早いばかりに必要以上の動きをしてしまっているだけじゃないかな、と別の可能性を言語化し、提示してくれたのも彼女だった。

私と彼女は全く別の人間だし、到底彼女のマネはできないしすべきでもないと思っている。
でも、ああやって人にレッテルを貼ったりせず、そのままの自分を見てもらえるのは嬉しいものだし、それだけフラットに人を見られることは素直に尊敬てできる。

改めて私は、等身大のその人を受け入れられる人間でありたいなと思う。

あまり勝手に自分の都合のいいように人を解釈すると、期待外れだった時に勝手にがっかりしてしまいそうで嫌だし、それこそ私がもしやられたら快くないだろうなと思うし。

当然、他己分析をしてもらい、フィードバックしていただけるのは嬉しいけど、レッテル貼りの材料にされ、その一時の印象でその先もずっと決めつけられるのはやっぱり悲しい。
自分がやられて嫌なのだから、人にも正々堂々やるべきではない方がいい。

考えてみれば、人にレッテルを貼る障害って色々ある。
例えば『こいつはできないやつだ』とかレッテル貼ったら最後、その人の持つ他の大きな可能性を盛大に無視し、排除してしまう可能性だってある。逆に、優秀な人間だと決めつけて何でも押し付けて、結果潰してしまうなんてこともある。

社会人になってここ数年、ありとあらゆるものごとをざっくり理解するために、ラベリングばかりしてきてしまった。きっとその中には、厳密には間違っているようなことが山ほどあるのだろう。

これからは私の持つ数多の思い込みに、積極的に揺さぶりをかけていきたい。そのためにも、言語化、文章化することはとても効果的な習慣だと思う。

逆に、色んな人の多面性を垣間見られるエッセイを読む習慣もまた、実践していてすごく良いなと思っている。

最近、エッセイをよく読む。先程だって星野源の『いのちの車窓から』を読み終えたところだ。
黒柳徹子のトットちゃんを筆頭に、あとはオードリー若林とか、星野源とかしかまだ読めてないけど、それでも全員の解像度が上がると同時に、自分がこれまで見ていたのはその人のほんの一部にすぎないことを痛感する。しかも、人は着実に変化していくので、読み始めと巻末とでは、全然考え方が変わっていることすらある。思い悩みながら、着実に次のステージに進んでいく。やっぱり人間って最高に面白い。

私も、彼らに少し憧れながら今日も文章を書いている。書籍化されるなんて羨ましい。

小山田咲子さんだって、書籍化されてしっかり評価されているのだから素敵だ。まだインターネット黎明期で、一般人が世の中に影響を及ぼす機会なんてほとんどなかった2005年であっても、ちゃんと日の目を見られたってすごいことだ。

私もあんなふうに、死ぬまで続けたブログを、死ぬその直前のところまで書籍化してもらえたりしたら最高に嬉しい。私が死んでも、私の人生を辿ってくれる人がいるなんて。

例え読み手が少なかったとしても、死んだあとに私の人生を辿って楽しんでくれる人が1人でもいれば、本当に生きていた甲斐があるというものだ。

なんだか今回、つらつら書いていくうちに、自分の中でもやっとしていた部分について、なんとか言語化できてすごく嬉しい。

なんにせよ、これからもこのエッセイ?的なものを書き続けて行こうと思うので、誰かいつか書籍化してください。よろしくお願いします。



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