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この文章は過剰な深読みとこじ付けで構成されていますその2(正三角関係:唐松兵頭編)

前回の唐松威蕃編に引き続き、唐松兵頭、そして盟神探湯検事というキャラクターを福音書の視点から噛み砕いてみよう思う。
あくまでも「こうだったら面白いし怖いよね」程度の解釈なのでこれが正解ではないし、ほとんど妄想だと言っても良い。
なので、真に受けすぎずに楽しんでいただけるとありがたい。



1.聖書好きは鍵という言葉に反応しがち

兵頭のキャラクターを探る前に、どうにも心に引っかかっているアイテムについてまず話したい。

正三角関係は序盤から新約聖書の引用やダヴィンチの最後の晩餐に被せた演出が出てくるため、何かしら新約聖書の設定に紐づけたくなる気持ちを誘発してくるのだが、やたらと台詞の中に登場する兵頭の火薬庫の「鍵」もその一つだ。兵頭が殺された晩、彼の持っていたグルーシェニカと書かれた箱……その中に件の鍵が入っているかどうかによって富太郎の判決が左右されることとなったのだから、そりゃ台詞にたくさん出てくるだろうと言われてしまえばそれまでだが、キリスト教の関わるストーリーで「鍵」という言葉が頻出すると、聖書好きはどうしても「ペトロの鍵」と関連付けたくなってしまう生き物なのだ。

ペトロの鍵というはマタイの福音書のみに登場するアイテムだ。「ヨハネの福音書には出てこないんかい」と思う方もおられるだろうが、一つの福音書でしか言及されていないストーリーであっても、キリスト教全体の共通認識となっているものはいくつもあって、ペトロの鍵もそのうちの一つだ。なのでペトロ=鍵を持っている、というのは特にカトリックにおいて絶対的共通認識だと思ってもらって良いだろう。
ではペトロの鍵とは何なのか、それはイエスが使徒ペトロにのみ与えた「天国への扉を開ける鍵」のことである。地理や世界史が得意な方なんかは既にご存知かもしれないが、カトリックの総本山であるバチカン市国の国章に描いてある鍵はこのペトロの鍵だったりする。さらに、初代ローマ教皇こそが使徒ペトロなのだ。
というわけでカトリックにおいて使徒ペトロ及び彼が持つ鍵は、とんでもなく重要な要素なのである。

The coat of arms of Vatican City State
パブリックドメインの画像を使用

だからこそ鍵が台詞に頻出するたびに気にかかり、何より鍵が行方知れずのまま話が流されてしまったことにとてつもなく不穏な空気を感じていた。しかし鍵の持ち主である兵頭はどう考えてもイスカリオテのユダにしか見えず、じゃあやはりこの舞台においてペトロはいないのだろうな……と思っていたのだ。考察を始めるまでは。


2.兵頭と墨田麝香は、二人で一人のユダである

二人はプリキュアみたいな感じになってしまった。こんな最悪なプリキュアがあってたまるか。
冗談はさておき、正三角関係の舞台上で示された最後の晩餐の図において、兵頭がイスカリオテのユダのポジションに座っていたところから考察していきたい。
ちなみになぜ「イスカリオテの」と付けているかと言えば、ユダという同名異人の弟子が存在しており紛らわしいからだ。
しかし今回言及するユダはイスカリオテのユダのみのため、以降はシンプルにユダと表記していこうと思う。

前回のおさらいの図

・そもそもユダとはどのような人物なのか
ユダは4つの福音書全てで、銀貨30枚と引き換えにユダヤ人にイエスを売った裏切者として登場するが、ヨハネの福音書ではさらに、他3つの共観福音書には書かれていないユダの強欲さを証明する話が追加されている。

ヨハネの福音書12章
3 そのとき、(ベタニアの)マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

新約聖書(新共同訳)より
※()内はミリが補足しています。

「金入れを預かって云々」という記述は、ユダがイエス御一行の会計係を任されていたことを示している。ユダはその立場を利用して、金を頻繁にちょろまかしていたようだ。ベタニアのマリアはこの時点でイエスの信徒になっているため、彼女が香油を売った場合に入るその金は会計係のユダが管理することになり、彼は大金を手にすることができるとでも考えていたのだろう。そんな金に強欲なユダのアトリビュートはド直球に金袋(財布)だ。
火薬を横流しして金に換えていた兵頭と隅田麝香を思い浮かべずにはいられない。

とは言え正三角関係においてユダ役の片割れである墨田麝香は、兵頭と共に火薬を横流ししながらも自身への実入りの少なさに不満を募らせていたようで、(威蕃の証言通りならば)威蕃の「神はいない、だから何をやっても良い(要約)」という言葉が決定打となり兵頭を裏切り殺害、後に縊死体いしたいとして発見される。
一方、マタイの福音書ではイエスを裏切った後のユダの様子が記されているのだが、元々は真面目な男だったユダはイエスを裏切りはしたものの、罪悪感により手に入れた銀貨30枚をイエスを売った先のユダヤ人に突き返し、そのまま罪の意識に苛まれて首を括って自死に踏み切ってしまう。
それぞれの性格こそ違えど、両者とも裏切りの末に首を吊った状態で発見されている部分が共通している。

ここで少し話が逸れるのだが、イエスを裏切る際のユダは、ヨハネの福音書において下記引用のように描かれている。

ヨハネの福音書13章
2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

新約聖書(新共同訳)より

読んでそのまま、ユダは悪魔にそそのかされてイエスを裏切ってしまう。正三角関係で墨田麝香が裏切るのは富太郎(犠牲の小羊)でなくユダの片割れ兵頭だが、裏切りに注目してこの記述を正三角関係に置き換えてみると、威蕃=麝香をそそのかす悪魔ということになってしまう。
ちなみに、前回の威蕃編においてヨハネの黙示録に出てくる悪の三位一体(サタン・反キリスト・偽預言者)という概念に触れたが、そのうちの一つである「偽預言者」というのは、洗礼者であり旧約聖書最後の預言者とも位置付けられる洗礼者ヨハネが反転した存在との解釈が強いそうだ。

……これ以上は怖いから何も言うまい。威蕃の解釈が黙示録に寄ってしまう。
というわけで少し怖い話を挟んだが、兵頭と墨田麝香が二人合わせてユダの人物像に倣っていることはなんとなく理解していただけたのではないだろうか。

しかし先にも説明した通り、ユダの裏切り者という一面は彼の果たすべき役割の過程で生まれた一つのイメージに過ぎない。
ではユダの最も重要な役割とは何なのか。
それは、イエス(犠牲の小羊)を死においやる装置となることだ。
そしてその部分を担っているのは、間違いなく何者かに殺された唐松兵頭だろう。

何故ユダがイエスを死においやらなければいけないのか、それは旧約聖書で預言されている「いつか人々を救うために現れる救世主キリスト」のシナリオにそう書いてあるからだ。ユダの裏切りもイエスの磔刑も、そしてイエスが救世主キリストとして復活するのも、すべて旧約聖書で預言されていた通りだった、というのが新約聖書の言い分であり大筋である。だからこそユダの最重要な役割は旧約聖書の預言通りイエス(犠牲の小羊)を死においやることであり、正三角関係において兵頭は何者かに殺され、その冤罪が富太郎に降りかかることで、犠牲の小羊である富太郎が死刑においやられる必要があったのだ。

・そもそもイエスは何のために死ぬ?
兵頭の話から逸れるうえにこれは富太郎の解釈編でも再度説明するつもりだが、聖書を理解するうえで大事な話なので先に一度説明しておきたい。
イエスが神の一人子として生まれた理由は「自身の命を捧げる代わりに、人間の犯してきた罪一切を赦す」ためである。

ローマ信徒への手紙6章
23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

新約聖書 ローマ信徒への手紙(新共同訳)より

新約聖書の土台となっている旧約聖書の内容は、欲望(罪)に溺れた人間と、それを裁く神の歴史の繰り返しだ。人間は懲りずに神の怒りを買い、そのたびに厳しい裁きを受け、そのたびに許しを乞い、主に羊などの動物を生贄として神に捧げてきた(旧約聖書ではとにかく羊がよく捧げられるので、生贄の羊概念はここから生まれている)。しかし動物の生贄は一時しのぎにしか過ぎず、人間の罪は溜まる一方だ。このままでは最終的に、人間は完全な死を迎えてしまう。そこに神の慈悲で現れたのが救世主キリストである神の一人子イエスであり、イエスは自身の命と引き換えに人間の罪一切が赦されるのである。

そしてイエスの犠牲によって人間は命を救われたという認識があるからこそ、キリスト教では何かを庇う・救う代わりに自身の命を差し出す「自己犠牲」こそが、どんな大罪をも覆す最も尊い行為とされているのだ。この教えはキリスト教国のボランティア・寄付精神の高さにも繋がっていたりする(今日では税金対策という側面も大きいが……)
しかしここまで読んで、何か気づいたことはないだろうか。
そう、この文脈でいくと、仮に神の一人子(犠牲の小羊)が人間の罪に代わってその命を捧げることに失敗したとき、人間はどうなるだろうか。

富太郎が死ななかった正三角関係の世界は、どうなっただろうか。


3.兵頭のウラ面:盟神探湯くがたち検事

今回竹中直人さんは唐松兵頭と、そして真逆に思える役の盟神探湯検事という二役を演じている。この一人二役には個人的にそうする意味があると思っているのだが、最後の晩餐で分かりやすく示されていた兵頭(ユダ)がオモテなら、盟神探湯検事に隠されたキャラクター性とは一体何だろうか。

ここからはさらにこじ付け臭くなるので繰り返させていただくが、「こうだったら面白いし怖いよな」程度の解釈である。

・最後の晩餐を見てみる
新約聖書の内容を知らずに最後の晩餐を見て「この中にイエスを裏切る者がいる」と教えられたとき、すぐにユダを当てられる人はいるだろうか。個人的にはかなり難しいと思っている。
だってユダのすぐ傍に、ナイフを持ったもっと怪しい奴がいるから。

実はこのナイフ、イエスを捕えようとしたユダヤ人の耳を切り落とす勇気のナイフであり、しばしば(毎回ではない)この人物のアトリビュートにもなっている。
であるのにも関わらず、ダヴィンチによる男の描き方はなんだか作為的だ。イエスから隠すようにナイフを持たせて、油断した隙にグサリと行ってしまいそうにも見える。
そして注目してほしいのは、このナイフを持つ男の服装の色とやや禿げ上がった(ごめん)白髪交じりの髪型。盟神探湯検事の衣装にどことなく似ている気がしないだろうか。

どうしてダヴィンチはこの男をユダの傍に置き、さらに裏切り者にミスリードさせるような作為的な描き方をしたのだろう。
この男、実はユダとの共通点がある。
それは一度イエスを裏切ったという点だ。しかしこの男は、後に聖人のトップに近い位置に君臨し、初代ローマ教皇となる。
そう、この男こそがイエスより「天国への扉を開ける鍵」を授けられた使徒ペトロであり、兵頭のウラ面である盟神探湯検事なのだ。


4.盟神探湯検事ペトロ説

まずペトロとはどのような人物なのかを説明したい。
ペトロはイエスの側近であり、ペトロ(岩を意味する)という呼び名自体もイエスが彼に与えた特別な名前だ。この人はイエスに「わたしを何者だと思うか」と尋ねられたとき、迷いなくイエスを「生ける神の子」と認めたことでイエスから天国の鍵を授けられた。

マタイの福音書16章
19
わたし(イエス)はあなた(ペトロ)に天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

新約聖書(新共同訳)より
※()内はミリが補足しています。

このような熱い信頼で結ばれたイエスとペトロだが、ペトロはその後一度だけイエスを裏切ってしまう。イエスがユダヤ人に捕まった後、ペトロはイエスの弟子であることを問い詰められる。認めれば自身も罰を受けることになるだろう。ペトロはそれを恐れて「イエスなど知らない(自分は無関係だ)」と3回もイエスとの繋がりを否定してしまうのだ。この場面は「ペトロの否認」と呼ばれ、新約聖書の中でもかなり有名なストーリーとなっている。
しかし彼がユダと違ったのは、その後心から悔い改めて熱心に布教活動をし、名誉ある死に殉じたことだ。
一方、ユダが罪の意識に苛まれて選択した自殺という方法は、キリスト教において神の愛を裏切る大罪であり、自殺の罪が覆ることは99.9%ありえない。地獄への直行便だ。それくらいの重罪行為なのである。

ペトロとユダ、片やイエスを裏切ったものの悔悛によって初代ローマ教皇となり尊敬され、片や裏切り者として死んだ後も汚名を着せられ続けている。なんとも皮肉な二人である。

盟神探湯くがたちという意味深な名前
正三角関係の観劇直後、盟神探湯検事の存在がどうしても気にかかっていた。というのも、他の登場人物の名前は何かしら『カラマーゾフの兄弟』の登場人物を土台とした名前を付けられているのに、盟神探湯検事に関してはそのモデルとなったであろう検事補イッポリート・キリーロヴィチとは名前が似ても似つかない。何故こんな、どちらかと言えば裁判長に付けそうな盟神探湯なんて名前を、わざわざ兵頭のウラ面たる検事に付けたのか。必ず意図があるはずだと考えた。
ではまず盟神探湯の意味を簡単に調べてみよう。

盟神探湯
古代において行われた神判。『日本書紀』はこれを「盟神探湯」と記しているが,「くか」は,けが,けがれと同語であって,つみ (罪) というに等しく,「たち」は断 (裁) であって,決定の意であると考えられる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

新約聖書が好きな人間は、この説明を読んだ時点で「めちゃくちゃペトロやーん!!」となってしまう。
それは何故か。先述したようにペトロはイエスから「天国の鍵」を渡された。それが元となって、殉死後に聖人となった彼は、死んだ人間の罪を裁き天国行きか地獄行かの神判を下す役割を担うことになるのだ。
皆さまはイギリスのロック・バンドColdplayの「Viva la Vida」という超名曲を御存知だろうか。歌詞の中に、このような一節がある。

I know Saint Peter won't call my name.
聖ピーター(ペトロ)が私の名を呼ぶことは無い。

Coldplay - Viva la Vida

聖ペトロに名を呼ばれない、つまり「天国に行くことができない」と遠回しに言っている。このように、キリスト教国では天国に行けるかどうかはペトロの神判によって決められる、というのが一般教養的に知られているのだ。


そういえば盟神探湯について調べているとき、以下のような興味深い記述を発見した。

アイヌ民族の間でも「サイモン」と呼ばれる盟神探湯が行われていた。方式は日本本土とほぼ同じである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

先に言っておくが、ここからは超絶こじ付けとなる。

アイヌ語ではまた別の意味があるのだろうが、「サイモン」というのは英語圏ではよく聞く男性名だ。ちなみにサイモンという名前の由来はユダヤ名のシモン
イスカリオテのユダの父親の名前がシモンだったように、聖書にも割とよく出てくる名前である。
しかし、聖書にはもっと有名なシモンが存在する。
それは、使徒ペトロ。

ペトロはイエスが与えた名前であり、彼の本名はシモンなのだ。

マタイの福音書16章
15
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
17
すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。

新約聖書(新共同訳)より

とは言えアイヌ民族は正三角関係とは何も関係ないし、さすがにこれは野田さんも意図していない偶然だろうと思っている(そもそも盟神探湯検事=ペトロ説だって勝手に私がそうこじ付けているだけだ)。
思っているが、盟神探湯が場所によってはサイモンと呼ばれ、サイモン(シモン)はペトロの本名でもあるなんて、すごい偶然もあったものだなぁと思って紹介した次第である。

とまあ色々書いてはみたものの、威蕃編に引き続き今回も深読みと妄想のオンパレードだった。
ただ個人的には、在良とグルーシェニカのまるで魔法のようなキャラクターの入れ替わりに比べ、その場でいそいそと忙しなく着替えては役柄を切り替える兵頭と盟神探湯検事は、笑いを取る演出という意味のほかに、二人が富太郎(犠牲の小羊)の運命を決める重要な役割の表裏一体であるとわかりやすく教えてくれていたのではないかとも思ってしまう。あくまでも、兵頭 ⇔ 盟神探湯がユダ ⇔ ペトロであるという意図が合っていたと仮定しての話だが。

余談だが、個人的に気になっているのが正三角関係の中で出てきた「これは大和民族の話だ」的な台詞である。あの台詞、結構重要な台詞だと思っていて、新約聖書の話は正三角関係におけるただのミスリードであり、盟神探湯検事が存在することからも実は日本書紀に倣っている部分が結構あるのではないか?と勘繰っている。日本書紀にも鉤(カギ)出て来るし……
とは言え私がそこそこ分かる分野はユダヤ教をはじめとした一神教のみなので、日本書紀は門外漢だ。その辺は詳しい人に任せたい。

それにしても毎回中途半端に富太郎の話を出しているのがなんだか思わせぶりな感じで申し訳ない。本来はユダとイエス、ペトロとイエスは切っても切れない関係なので、兵頭と富太郎の説明を一度にまとめて書いてしまいたかったのだが、もう正直に言うとめちゃくちゃ疲れちゃった

いや書いてて自分自身すごい楽しいんだけど、ただ普段まったく頭を使わずに生きている人間なので、本当に疲れちゃった
なので富太郎編はまた別で書かせていただきたいと思う。でも富太郎の解説をしたら、もう少しペトロやヨハネに関しても掘り下げられるかな~(かな~?)とは思っている。
では非常に中途半端な感じになってしまったが、今回はこの辺で。
ここまでお読みくださりありがとうございました。




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