息してれば明日はくるんだし
大切なものをなくしたとき「心にぽっかりと穴が空いた」というたとえを使うことがあるけれど、不思議とそういう感覚はなく、むしろ彼女たちはわたしの心の穴を埋めてくれた存在だったので、今でもその穴は埋まったまま、満たされたまま、すがすがしい寂しさだけがわたしの心を占めている。初めての感覚だった。
アイドルグループ・BiSHが解散した。解散ライブの帰りの電車でこの文章を書いている。
電車に乗り込んだときは、わたしと同じようにライブの名残惜しさを抱えた人たちしか周りにいなかったのに、気付けば右も左も今日がライブだなんてことは知るよしもない、仕事帰りのサラリーマンだ。
そうやって少しずつ空気が循環して、車内に充満していたBiSHへの想いの濃度が薄まっていくのが、ちゃんと目で見てわかる。こうしてみんな、それぞれの日常に帰っていく。
もともと、アイドルを応援するのは苦手なほうだった。それは多分、アイドルが演じている人柄や、関係性の中にある「嘘」を感じとってしまうのがつらかったからだと思う。
学生時代を女社会の中で過ごしたから、そういう部分に過敏なのかもしれない。けれど、初めてBiSHを見たとき、彼女たちの「嘘」なら信じたいと思った。
それがなんでなのか、明確な理由を答えるのは難しいのだけれど、でも、BiSHが"演じる"「アイドル」なら、たとえ嘘だっていいと思った。
結局、一緒にライブに行くような友だちはひとりもできなかった。ずっとひとりだった。ライブの喜びも、解散の悲しみも、誰とも分かち合うことができなくて少し寂しかった。
けれど、彼女たちがくれる感情を誰にも分けてあげず、全部ひとりで抱きしめて、噛み締めて、心で暴れて、忘れないように刻んでおくことだって、悪くなかったなと思う。
ただ、そんな日々の中で時々、知らないおじさんと泣きながら肩を組んで歌ったり、大学生の男の子からサイリウムを分けてもらったり、年上のお姉さんからチケットを譲ってもらったり、そういう刹那的な人との関わりがあって、それはそれで思い返せばとても光って見える記憶だった。
BiSHを応援する中で感じた、孤独も、人との繋がりも全部、尊くて温かい。
解散ライブの日、大きな、大きな東京ドームの階段を踏みしめながら涙が出た。わたしにとっても初めての東京ドーム。
アーティストがよく言う、ファンを大きな会場に「連れて行く」ということの本当の意味がわかったような気がした。好きなものというのは、いつだって新しい世界を見せてくれる。
座席はそんなにいい場所ではなかったのだけれど、わたしにぴったりな席だと思った。
ステージを鋭角で見上げて、近距離で彼女たちの姿を追うよりも、まっすぐステージを見て、ボールを投げるみたいに遠くから声を飛ばすほうがわたしらしい応援の仕方だって、わかっていたから。
想像していたよりは泣かずに観れた。それは悲しいことを忘れてしまうくらい、かっこよくて素敵なショーだったからで、そんなのもう、大成功でしかないじゃんと思う。BiSHは東京ドームに立つアーティストになった。
終わりは、いつも寂しい。ドラマやアニメの最終回シーズンとか、小説を読み終える瞬間とか、実はちょっと苦手だ。
けれどまたすぐ、わたしは必ず、新しいものに出会う。それは非情であって、希望でもあって、きっと悲しいことじゃない。
いつか出会う、新しいもの。すてきなもの。これからのわたしをつくっていくもの。
そんなものと出会うために、出会ってきたものたちがある。わたしの心の中に、傷跡みたいに、もしくは宝物みたいに、ずっとずっと残り続けるもの。わたしにとって、そのひとつがBiSHだった。
この人生の中で、涙が出るほど好きなものに出会えたことを、とても誇りに思う。BiSHをすてきだと思えた自分を、誇りに思う。わたしは幸せ者だ。
最高の青春をありがとうございました!
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